公益財団法人トヨタ財団

情報掲載日:2024年10月11日

 


トヨタ財団50周年記念事業特別インタビュー

可視化されにくく理解を得づらい慢性の病い経験を描き広める取り組み ── 新しい概念も作り出す

生き活きカフェ
生き活きカフェ

取材 ◉ 加賀 道(トヨタ財団リサーチフェロー)
執筆 ◉ 武田信晃(フリーライター)
 


世界屈指の長寿の国である日本は、ついに人生100年時代が叫ばれるようになった。厚生労働省によると戦後10年がたった1955年の平均寿命は男性63.6歳、女性が67.8歳であり、それと比較すると隔世の感がある。医療の発達が大きい要因だが、治療できる病気が増えた一方で、多くの疾患を慢性化させることにもなり病気との共生が求められる時代になった。

慢性疾患の患者は、第3者からではわからない目に見えない苦しみを抱えているケースもあり、周りの共感を得にくい場合がある。つまり、生きづらいのだ。それについて理解を深め、多様性を受け入れる素地を創り、インクルーシブな職場や社会を築くことに寄与することを目指したのが2017年にトヨタ財団が助成した「慢性の病い経験を捉える新しい概念生成に関する現象学的研究―治癒や管理とは異なる視座の開拓―」だ。この概念作りを主導した淑徳大学看護栄養学部看護学科の坂井志織准教授(助成当時は東京都立大学に在籍)はどんな思いがあったのか?

助成対象プロジェクト

坂井志織
坂井志織さん
プログラム
2017年度 研究助成プログラム
企画題目
慢性の病い経験を捉える新しい概念生成に関する現象学的研究 ── 治癒や管理とは異なる視座の開拓 ──
助成番号
D17-R-0563このリンクは別ウィンドウで開きます
助成期間
2018年5月~2020年4月
企画概要
医療技術の革新的進歩は、致死的疾患の減少に貢献した。他方で、がんなど多くの疾患を慢性化させ、「治癒」とは異なる病いとの共生を生んだ。治療や生活を大きく変化させる新薬等の開発も続いており、正負両側面において先の見通しが立ちづらいのが現代の病い経験である。多様化・複雑化した経験は、既存の「治る/治らない」「病気/健康」という医療的管理の視点ではもはや捉えきれなくなっている。現代の病いを生きる当事者の経験に接近し、その生き方そのものから経験を捉える新たな概念の生成を目指す。
本研究の成果は、1.医療者に希求されている慢性病者を診る総合的な力を育てること、2.より多くの人が慢性病者の生を理解し、多様性を受け入れる素地を創り、インクルーシブな職場や社会を築くことに寄与する。

きっかけはある患者の自死

慢性の病い経験を捉える新しい概念が目指すところについて次のように説明する。「大きくは2つあります。1つはそのものズバリですが『慢性の病い経験を捉える』ことです。病院にいると、医療者は病気を治すとかより良く管理するところばかりに着目しがちです。患者も医療者も同様に、そこを目指していると思い込んでしまいがちです。でも、そうではない患者の生き方もあるのです。慢性の病気の多くは完治には至らないものが多く、細く長く、うまく付き合っていく必要性があり、それには苦しさも伴います。最近、よく言われる生きづらさみたいなところに、医療の側面から別な視点を提示することがひとつの目標です」

2つ目として「地域や職域で、病気と共に暮らすことへの理解や多様性を含め、垣根のない職場や社会を、学術と医療においていろんな分野で架け橋を作っていきたいと考えています」

この考えは、坂井准教授が看護師時代、ある患者が自死したという厳しい経験があったからだ。また、研究の道に進むきっかけにもなった*1。「新卒から脳神経外科病棟で5年間働いたのですが、3年目の時の話です。担当した患者が生死の境をさまよったのですが、なんとか持ち直しました。その後、運動麻痺や言語障害もなく社会復帰できるまでに回復したのですが、左半身にしびれが残りました。そこで、回復期のリハビリテーション病院に転院したものの良くならず、再び私がいる急性期病院の麻酔科外来で、しびれを軽減する治療を受けていました」

ある日、坂井氏は通院してきた患者と久々に外来で会い、症状の改善がみられないので、今日で麻酔科での治療は最後だと言われた……という話をされる。「『最後に坂井さんに会えてよかった』ってなんとも言えない表情で挨拶をされて帰られました。なんか変だなと思ったんですけど、他の治療中の患者も居た為、それ以上声を掛けることができず、背中を見送りました。そして、数日後に警察から電話があり、自ら命を絶たれたという話を聞き、驚き大変ショックを受けました」

坂井准教授は「大きな病気をしてしびれはあるけど動けるし、社会復帰できるから、治って良かったと思っていました。でも、本当はそうではなかったんだと思って……。私が想定していたのとは全然違う、苦しさとか大変さが患者にはあったはずですが、私は全然わかっていなかった」と悔恨の念にかられた。

しびれというのは見た目では分からないので、健康な人として扱われがちだ。病気から快復し働けているねと言われると「本人の中では周りに人がいるのに、孤立してしまう状態になって余計につらかったんだと思います」と振り返る。

病気とうまく付き合っている人のノウハウに価値がある

一般的な学術論文では、どうしても理想的な取り組みをした人にフォーカスが置かれる傾向になるという。「模範的な取り組みをした患者が素晴らしいみたいな感じで取り上げられます。たとえば、糖尿病患者は、ご飯を測り、運動もすごく頑張ったような理想的なスーパーマンみたいな患者ばかりが論文として提出されますが、実はそれも息苦しいはずなんです」

しかも、現実はスーパーマンばかりではない。その一方で、医療者が考える理想とは異なる形で病気とうまく付き合っている患者もいる。高血圧、糖尿病、脂質異常症など10以上の慢性疾患を30年間患いながらも、脳梗塞なども起こさず大きな病気にならなかった事例があった。大病を患わなかったのは病院とのつながりがあったからだ*2。「病院から管理された治療とは違い、何か独自のやり方で、長年、病気とうまく付き合っている人でした。その時、『こういうやり方もあるよね』って言ってもらうほうが、患者さんもうまく付き合っていけるように感じたのです。しかも、その経験は貴重なのに、なかなか表に出てこないと感じていました。そこの価値を打ち出していくのが私の仕事じゃないかなと思っています」

坂井准教授は、治療は基本的に病院によって“管理される”ことになるが、治療が苦しくて、途中から来なくなる人も相当数いると言う。それは病院とのつながりがなくなり、大きな病気を発見する機会を失う事にもなると指摘した。

体験を共有する「生き活きカフェ」

生き活きカフェの一場面。ゲストスピーカーを迎え、ご自身の病い経験を語って頂きました。皆さん熱心に聞き入っていらっしゃいます。
生き活きカフェの一場面。ゲストスピーカーを迎え、ご自身の病い経験を語っていただきました。皆さん熱心に聞き入っていらっしゃいます。

今後は、さらに高齢化社会が進む。つまり、慢性疾患に悩む人がもっと増えることになる。「だからこそ『別の道もありだよね』っていうところを、伝えたいなと思っています」

そのうまく付き合う方法を社会に還元しようとする取り組みが「生き活きカフェ」だ。毎回、病気の経験者をゲストスピーカーとして招へいし、15~20分ほど、ご自身の病いの体験を語ってもらう。その後、カフェタイムを挟み、5名ほどの小さなグループになって自らの病気経験について話し、かつ他の人の経験に耳を傾けるというものだ。「地域の中にいる病気を持ちながら暮らしている方にも還元したいと思いました」

参加者は、がん、脳梗塞、うつ病だった人などさまざまで「病気自慢、ただ病気のことを話したい人、聞きたいという人もいました。固定メンバーができてしまうと、新たに入りづらくなるので、ゲストスピーカーを毎回変えるなど、流動性を保ちながら実施しました」。最初は5000枚のチラシを配布したそうだが、想定をこえる人数が集まった。

秀逸だったのは、前述のグループトークの方法だ。「『えんたくん』(市販されている脚のない丸型段ボール)という段ボールテーブルを囲んで、みんなで話をするという形式で、1テーブルに1人、研究メンバーがファシリテーターとして入り、それ以外は自由なメンバーでやりました。1人だったり、夫婦だったり、若い人、高齢者などいろいろな参加者がいましたが、初めての方と話ができて楽しかったとか、こういう人もいるんだ、すごく新鮮な話ができてよかったなど、大変好評でした」と、話を動画ではなくライブで共有することの大事さを教えてくれる事例だ。

段ボールテーブルえんたくんを使ってのグループトークです。大変盛り上がりました。
段ボールテーブルえんたくんを使ってのグループトークです。たいへん盛り上がりました。

日めくりカレンダー作り

えんたくん
さまざまな思いが書き込まれる「えんたくん」

えんたくんを囲んで話をしていると、いろいろな面白い言葉が出てきたそうだ。それは論文にはならないが、1つの形にしたかった。「病いとともに生きる人たちがそれぞれ、一言発した言葉が面白かったので、何もしないのはもったいないと考えました。病気と共に生きるという内容なので、日常的に使えて、利用ハードルが低く、季節も関係ないところで、研究メンバーの中から出てきたアイディアが日めくりカレンダーでした」

20歳~80歳代の79名から出た印象的なフレーズは466あり、その中から31個を選んだ。1月や2024年などが書かれていていないので、毎月、何年でも繰り返し使える。「ポジティブ、ニュートラル、ちょっとネガティブな言葉を満遍なく入れるようにしましたし、何日にどの言葉をいれるのかも吟味しました。デザインも、生々しいイラストも嫌だし、伝わらなければ意味がないいうところで、イラストレーターと話をしながら進めていきました」

フレーズの一部を紹介しよう。「私のおすすめは、関西のおばあさんが言った「健康の秘訣は『CEO』よ」というフレーズです。『ちょっとエロいおっさん』という意味なんですが(笑)、スポーツクラブとかスイミングクラブに行くと、『今日の水着は新しいね』って、そういうこと言ってくるおじいさんが元気らしく、ちょっとしたエロが元気の秘訣だよねって話してくれたんです」。

日めくりカレンダー
日めくりカレンダー

ほかには患者「右手が痛いです」医者「年のせいです」患者「左手も同じ様に年をとってるんですが」というのも面白い。あるある!と思うようなフレーズが満載なのがこのカレンダーの魅力となっている。

初版は500冊だったが1日であっという間になくなったそうだ。「アンケート調査をみると、とある病気を持たれてる方が、血液データの改善が見られなくてしんどいなと思った時に、このカレンダーをもらい、共感できるフレーズがあって、みんな一緒なんだなと思い、少し気持ちが楽になったと回答してくれた人がいました。カレンダーを媒介にして、知らない人と架空につながる形が生まれたのも良かったです。」

また、この取り組みの意義を次のようにも語る。「研究者だけで行ったのではなく、社会とともに研究成果を作ることができたことです。皆さんのニーズはなんだろうとか、どんなことを思ってるんだろうというのを、その場で一緒に作れたことと参加者もカフェに行って楽しかったね、話を聞けてよかったね、しゃべれて気持ちが楽になったねというような、ちょっとした成果が、各参加者の中に残っていくことが重要なんだと感じました」
さらに人々を励ます効果もあったと強調する。「病気のことを語ることは家族以外の日常では案外ないと思います。話を共有することで、自分以外にもそういう人がいると、自然発生的な“励ます―励まされる”場が生まれるということも発見できたのは大きかった。」

その上で、「学術的なところにつなげたいなと思い、学会の交流集会にゲストスピーカーに来てもらったところ、立ち見が出るくらい多くの研究者が来てくれました。おかげで医療者が固定概念を考え直すきっかけになり、この価値観を研究者に一定の割合で伝えられたのは良かったと考えます」

新しい考えを社会一般にも広める

ご近所の方が、「生き活きカフェ」の幟旗を目印に自転車を漕ぎご参加くださった様子です。
ご近所の方が、「生き活きカフェ」の幟旗を目印に自転車を漕ぎご参加くださいました。

2017年に助成を受けた当時はこの概念は理解されなかったが、カレンダーなどを通じて少しずつ世の中に発信することができた。それから社会に変化は生まれたのだろうか?「医師はその使命として、治すことに価値をおいていることが多いと思います。ただ、治らない病気と付き合う点については、たとえば、日本慢性看護学会では着目されつつあると思います。ひとつの疾患だけではなく、複数の疾患と共に生きていくってどういうことか?ということを、以前より関心を持って見てもらえるようになったと思います。論文を出し、学会で講演などを継続していくことで、5年後、10年後、20年後に『今はこうだけど、あの時はこうだったね』って言える道の途中にいるのだろうと思います」

昨今は、医療従事者ではなく一般の人にこの概念を知ってもらうきっかけをどう作るのかが課題だという。中高年になると自然とそういう問題が発生するが、問題は若者だそう。「慢性疾患を持っている若い人がいても、公に言えないのです。周りが元気だから、病気の話をするととても心配されちゃうとか、特別な人みたいな感じになるので隠しています。それも普通に言える社会にしたいという目的もあります」

言えないというのが、日本社会の息苦しさを象徴しているように見える。たとえば、自己責任論がその1つだという。「病気になったのも、慢性疾患になったのも自分の管理が悪かったからみたいになっています。社会人だから社会人としての役割を全うしながら、病気もきちんと管理しなければならならないという、責任ばかりがどんどん増えてしまうからこそ息苦しさがあるのでしょう」

それを打破するべく論文も書いた*3。「研究の中で『仕方がない』、『しゃあない』をポジティブな意味として、もっと打ち出してってもいいんじゃないか?という論文をメンバーと書きました。諦めの言葉ではなく、自分を許す感じのポジティブな面で使うのです」

数字ではなく現象学的研究の知見を根拠とする実践「PBP」

もちろん、研究は今でも続いている。「研究の発展型として、患者の経験を明らかにした上で、社会に還元したりケアの実践につなげたりしたいと思っています。ただ、実践家からは現象学的研究の知見を成果としてつなげるのは難しいと言われていて、成果をどう実装化していくか? というところに今取り組んでいます」

たとえば、エビデンスベースドプラクティス(EBP)、エビデンスベースドナーシング(EBN)などのエビデンスの多くは、数値的なところや実験的なところを根拠としている。「私たちは現象学的研究で明らかにしたものを根拠とした実践をしていきたいので、EBPではなく『Phenomenology based practice(PBP)』を創り出し、これまでとは異なる価値観から、新しいケアを作っていこうというのは、これまでの研究の発展型です」

数字というわかりやすい指標がないだけに、PBPという新概念の浸透はかなりチャンレンジングだ。「数量的研究でわかることとは違う、検査などの数値とも違う、でも確かにあるものをどう実践に意味あるものとして反映させていくかというところは、非常に重視したいと考えています。そして、いろいろな人に伝えていきたいです。せめて、PBPのような新しい根拠……自然科学と言われるものと違うものから、実践を生み出していくところの道筋だけでも作っていきたいですね」

今後、社会と共に価値を作りかつ社会と共に作られる研究が学術分野でも認められる動きが定着すれば、その後に続く研究者がいろいろな取り組みをすることが想定できる。多様性が叫ばれている中、新しい概念も認められ、浸透していけば、明らかに社会に有益となる。新しい考えが浸透するには時間がかかるが、それを見据え長期的に研究を続けていくつもりだ。

ゲストスピーカーと研究メンバーで記念撮影です。初回のCaféが盛会に終わり充実した表情です。
生き活きカフェ終了後のゲストスピーカーと研究メンバーで記念撮影。初回のカフェが盛会に終わった際の充実した表情です。


*1. 坂井志織(2019) しびれている身体で生きる、日本看護協会出版会.
*2. 坂井志織・細野知子(2021) 自覚症状のない複数の疾患と長期間付き合う経験からの一考察、保健医療社会学論集、32(1)、55-63.
*3. 杉林稔・小林道太郎・坂井志織(2020) 母であり看護師である女性が関節リウマチを患うこと、臨床実践の現象学、3(2)、15-27.

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