情報掲載日:2024年7月11日
トヨタ財団50周年記念事業特別インタビュー
ウィメン・ピース・メイカーズ(カンボジア)の辿って来た道──共感の醸成そして未来に向けた若者たちのエンパワーメント
取材:利根英夫(トヨタ財団プログラムオフィサー)
執筆・翻訳:岡村直人
カンボジア生まれのスーヒン・クリーさんとカナダ出身のハイマ・レイモンドさんにとって、平和構築と紛争変容は、個人的にも仕事上でも人生において大きな軸であった。10年前、二人はミャンマーでの和平プロセス監視団の仕事を通じて出会って以来、プノンペンに拠点を置く団体、ウィメン・ピース・メイカーズ(WPM)で精力的に協働し、平和に関するさまざまな取り組みを主導してきた。東南アジアで社会の周縁に追いやられた人々を包摂するための、ジェンダー平等や平和構築に関連する課題に対応してきた。
2018年度、平和構築の実践者である二人は、トヨタ財団の助成を受けたプロジェクト「『彼ら』を知るために『私たち』を理解する」に着手した。これは、WPMが独自に開発した参加実践型アプローチ「ファシリテイティブ・リスニング・デザイン(FLD)」を用いて、カンボジア、ベトナム、タイに住む少数民族グループに対する共感、そして彼らの間での共感を醸成するプロジェクトである。「カンボジアの人々が共感できる、隣国に住む少数民族を取り上げてみたらどうだろう?そんな考えからトヨタ財団のプロジェクトは始まりました。これまでとは異なる方法で検討してみよう、と考えたのです」とクリーさんは同プロジェクトの経緯を語った。
カンボジア首都にあるWPMのオフィスで行ったインタビューのなかで、二人はこれまでの人生の旅路を振り返り、WPMなど市民社会組織が直面する課題や、今後の抱負について語り合った。
助成対象プロジェクト
- プログラム
- 2018年度 国際助成プログラム
- 企画題目
- 「彼ら」を知るために「私たち」を理解する―ファシリテイティブ・リスニング・デザインを用いた地域レベルでの共感の醸成
- 助成番号
- D18-N-0119
- 助成期間
- 2018年11月~2020年10月
- 主な活動地
- カンボジア
- 企画概要
- 『「彼ら」を知るために「私たち」を理解する』は、カンボジアのウィメン・ピース・メイカーズ(WPM)が主導するプロジェクト。ファシリテイティブ・リスニング・デザイン(FLD)と呼ぶ、コミュニティでの活動に向けて彼らが開発したアプローチを用いて情報を収集し、相互理解を深め、共感を醸成することを目的としている。カンボジア国外に住むクメール系少数民族の参加者がトレーニングを受け、コミュニティ内での意見や感じ方をまとめ、少数派である状況における強みと弱みについて新たな知見を得ることが可能となる。また、カンボジア人の参加者が、自国内の少数民族に同じアプローチを行う。これにより、2つの異なる少数民族グループの状況について分析・比較するためのデータが取得される。カンボジア国内の「その他の」民族が、ベトナムやタイで暮らすクメール系少数民族と同様の経験や感じ方をしていることが分かる。本プロジェクトの最終的な目標は、親しさを感じる「私たち」を理解することによって、他の少数民族の人々(「彼ら」)の経験を理解することである。
クリーさんの辿って来た道:ピースメーカーを目指して
WPMのエグゼクティブ・ディレクターを務めるクリーさんは、平和構築とフェミニズムへの関心は、クメール・ルージュ共産主義政権下(1975年~1979年)で行われた大虐殺の深い傷が癒えぬカンボジアで育ったことに起因していると語った。「1979年1月にクメール・ルージュ政権が終わり、その8年後に生まれました。クメール・ルージュについては、ほぼ何も学ばずに育ちました。家族や親戚、教師たちでさえ当時のことを詳しく語ろうとはしませんでした。学校の授業には、現代史は含まれていなかったんです。両親がなぜ語らないのか、そしてどんな経験をしたのか、理解できませんでした」とクリーさんは子ども時代のことについて話した。
1991年にカンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定(通称パリ和平協定)が締結され、同国における激しい紛争に終止符が打たれたことで、1990年代に入り状況は変化し始めた。人々の心の傷を癒し負の歴史に幕を下ろすべく、約10年に及ぶ国連との交渉を経て、カンボジアは2007年、クメール・ルージュの幹部たちを裁くために国際刑事法廷と国内裁判所の両面の性質を併せ持つ、国際混合法廷(ハイブリッド法廷)を始めた。彼女の両親は内戦当時のことを語るのに消極的だったが、親が実際どんな体験をしたのかについて知りたい、という彼女の気持ちは高まっていった。好奇心にかられ、クメール・ルージュ時代の真実と正義を求めて記録を収集するカンボジア・ドキュメンテーション・センターでボランティアをすることにした。そこで、自身の家族の歴史について自らが記録する機会を得た。「クメール・ルージュ政権下で両親がどんな暮らしをしていたのか、初めて詳しく聞くことができました」と彼女は言った。
両親と話すなかで、自らの家族にまつわる隠された衝撃的な過去が明らかになった。下痢の治療薬がなく2歳で他界した兄がいたことや、生き埋めにされた叔父がいたことも初めて知った。また、クメール・ルージュ政権が追放される数日前に、祖父が亡くなっていたことも知った。母親が感情を抑えられなかったこともあり、両親に詳しく語ってもらえるようになるまで数か月もの時間を要した。「それでも何度も話を続けていくうちに母が落ち着いてきて、当時の良い思い出も語ってくれるようになりました。話すことは癒しになるのだと気付きました。この経験が、平和や紛争解決の分野に関心を持つに至ったきっかけです」とクリーさんは述懐した。
その後、クリーさんはカンボジア国内各地を周って加害者と被害者の双方と話す機会に恵まれ、国全体が被害を受けていたことを知り、加害者と被害者を線引きするのはそれほど容易ではないと学んだのだった。このような経験が、米国の大学で平和と紛争解決の分野で修士号を取得することへと彼女を導いたのだった。
ハイマさんの辿って来た道:意義ある社会参加を求めてカナダからカンボジアへ
1980年代、性的マイノリティに対してまだ反発の強い時代にハイマさんはゲイとしてのアイデンティティを模索しつつ少年時代を過ごした。なぜ周りの人が自分を嫌うのか、男の子らしくない話し方や振る舞いをすることで差別されるのかと悩む日々を送った。「なぜだろうと常に自問していました。他の人たちへの差別を目の当たりにするたびに、その疑問が頭を離れませんでした。相手を知りもせずに特定のグループに属する人々を一般化することに納得がいきませんでした」と当時のことをハイマさんは振り返った。
大学で国際開発を学び、卒業後は政府やNGOなどで働いた。しかし、どの組織でも内部に争いを抱えていることを目にした。貧困や移民や外国人への排斥的な動きなど、地球規模の問題に取り組んではいるものの、自らはオタワやトロントの居心地良いオフィスで働き、海外で開催される会議に出席する生活を送りながら、目の前の仕事に対して地理的にもテーマとしても心が離れていくのを感じ始めていた。2013年、ハイマさんはカンボジアで支援を求めるカナダの団体で働くチャンスを得た。「どこか別のところへ行きたくて、結局カンボジアに来ることになったんです」と彼は話した。
数年後、ハイマさんは、内戦の傷跡が残るカンボジアを「平和と紛争という観点からとても複雑な国だ」と考えるようになった。開発から紛争解決や平和へと視点を変え、カンボジアを全く異なる視座から捉えるようになった。40年前に起きたことはそれとして、悲惨で理解し難い歴史だけがカンボジアとカンボジアの人々の特徴だと見るのではなく、今日のカンボジア社会が達成した回復力と平和に着目し始めた。その経験が、ハイマさんの活動において中核をなし基礎となっている。
FLDを通じての共感醸成
2010年代初頭、何万人もの人々が通りを埋め尽くし、政権交代を要求するカンボジア初となる大規模な反政府抗議活動が行われた。少数民族のベトナム系住民が民族間の暴動の標的にされるのを見て、実践者としてクリーさんとハイマさんはこれまで海外で得た経験や、平和構築や紛争変容に関する学術的な知見を活用する方法を話し合い、現場で実践する方法を模索し始めた。互いに理解し合える点を探し、カンボジア内の異なる民族グループ間での共感醸成を目指した。「ジェノサイドや大規模な残虐行為を『二度と繰り返さない』ために、共存するだけでなく、多様性を尊重する方法を見つけなければなりませんでした。その時に、後にファシリテイティブ・リスニング・デザイン(FLD)と呼ぶ方法を取り始めたのです」とクリーさんはFLDの経緯を説明した。
しかし、主流派である多くのクメール系カンボジア人の間には、ベトナム系少数派住民に対する否定的な感情が根深くあった。二人は、クメール系主流派とベトナム系少数派の人々の間で共感を醸成するプロジェクトを実施することは困難だと感じた。
その代わり、国境を越えて異なる民族グループの人々を対象として見る、というインターエスニック・アプローチを採用することにした。「そうすることでプレッシャーがなくなり、より容易にこの問題について話せるようになりました。カンボジアの人々が共感できる、隣国にいるカンボジア系少数民族に目を向けてみたらどうだろうか。さまざまな民族グループの人々と混じった形で話せば、クメール系対ベトナム系、という構図に注目するのではなく、少数民族について話し合うことになります」とハイマさんは力説した。
インターエスニック・アプローチの意図するところは、主流派であるクメール系カンボジア人が、他国にいるクメール系少数民族についてどう感じるのかを尋ね、その上で自国内の少数民族についてどう考えるのかを問うことである。「カンボジアのクメール系主流派の人々に、タイやベトナムなど他国に住むクメール系少数民族について考えてもらって、『それでは国内にいるベトナム系の人々は?』と聞きます。そうやって彼らに考えてもらうのです。これが『彼ら』を知るために『私たちを』を理解する、と名付けた理由です」とクリーさんはFLDの目的について語った。異なる民族間で地域をまたぐアプローチが上手くいったことは、ハイマさんにとっても驚きだった。「これが本当にうまくいったんですよ!今まではできなかった対話を持てるようになりました」と彼は驚きを隠さなかった。
FLDとトヨタ財団国際助成との一致
トヨタ財団の国際助成プログラム「アジアの共通課題と相互交流 -学びあいから共感へ-」は、二人が取り組むプロジェクトにとって理想的な助成だと感じた。「あの時、トヨタ財団の募集テーマはまさにぴったりだと思いました。主流派の人たちの心にも届いて欲しいと考えていて、だからこそ共感を醸成し隣人から学ぶというトヨタ財団助成のコンセプトに辿り着いたのだと思います。素晴らしいチャンスなので応募しました」とクリーさんはその時のことを語った。
また、二人は、トヨタ財団が助成先団体との関係において、硬直的ではなかったことがFLDプロジェクト成功の理由だと述べた。FLDプロジェクトは、地域社会に住む少数民族の人々に関わる、複雑でセンシティブな性質を帯びているため、より制度化され、規則順守の面が強い他の助成団体にとっては、助成は難しかっただろう、と。「このような慎重にならざるを得ない内容のプロジェクトを行うことはできないでしょう。チャンスを与えられ本当に良かったです。トヨタ財団がそのような姿勢だったからこそだと思います」と当時感じた喜びをクリーさんは語った。
また、「『彼ら』を知るために『私たち』を理解する」というFLDの手法は、日本やそれ以外の国にも応用することができるという点を二人は強調した。少数民族の問題は日本にもあり、例外ではない。日系アメリカ人や日系ブラジル人など、いくつもの日系人コミュニティが北米や南米にある。彼らは少数民族グループとして各国で何世代にもわたり暮らしてきた。一方、日本における外国人労働者は増え続け、ブラジルや中南米諸国から来た日系人も多い。FLDをツールとして用いれば、日本人が日系の人たちに共感を持てるようになる。「彼らに共感を感じますか?(移民してから)100年経っても日本語を話して欲しいと思いますか?そのことを誇りに感じますか?このような教訓を生かして、自分とは異なるグループの人々に繋がれるようになります。私たちのプロジェクトは、人々に他者のことを想像する言葉と経験をもたらしてくれました」とハイマさんはFLDのさらなる可能性についても語った。
ウィメン・ピース・メイカーズの辿って来た道
ウィメン・ピース・メイカーズ(WPM)は、女性が先導する平和構築ネットワークとして2000年に設立された。何十年にもおよぶカンボジア内戦が終結した2年後のことだった。その当時、カンボジアの若者グループがさまざまな問題に取り組み始め、特にジェンダー問題に注力し始めた。内戦を生き延びた人々は6割以上が女性だったことが理由だ。女性たちはカンボジアの復興に大きな貢献をしたにもかかわらず、1991年のパリ和平協定の交渉の席には、女性の姿は一人も見られなかった。そのような状況を鑑みて、暴力の防止、女性によるリーダーシップの促進、平和と発展のプロセスに意義ある形で参加し権利を享受することを目的として、WPMは設立された。2003年、ジェンダーと平和構築の交差する点に注力する団体として、カンボジア内務省に登録された。
WPMには主に2つの柱がある。ジェンダーや女性問題に関わるプログラムと、平和と紛争変容のプログラムだ。2016年7月、クリーさんがエグゼクティブ・ディレクターに就任した際には、4人のスタッフだけで、草の根レベルの活動を行っていた。今日、スタッフは28名まで増え、彼女が働き始めた頃に比べ予算規模は18倍にまで増えた。クリーさんの下、草の根レベルから始まったWPMは飛躍的な成長を遂げ、ジェンダーと平和問題の交差する取り組みにおいて、国レベルの主要な拠点となっている。
しかし、成長には課題も付き物である。最も大きな課題は、WPMの取り組みを持続可能なものにできるかどうかだ。例えば、カンボジアの民間セクターは、敏感な問題に関する取り組みに資金提供するよりも、起業家育成や教育、クリーンエネルギーに着目する傾向があるとクリーさんは指摘した。国内の民間セクターからの資金は、人権問題に取り組むコミュニティサービス団体には振り向けられない。「カンボジアだけではなくアジアという文脈において、女性の権利ですら政治的で敏感な問題となります」と彼女は主張する。
さらに、カンボジアのコミュニティサービス団体への資金はプロジェクトベースで提供され、組織やスタッフを健全に保つという点にはあまり注意は払われない。効果的な成果を伴うプロジェクトを実施するためには人材が必要となるのは明白だが、プロジェクトベースの資金提供では、一つのプロジェクトが終われば、携わったスタッフがいなくなることを意味する。WPMにとっては、得意とする分野における人材の流出になってしまう。人材を維持し、仕事の質や知見を保つためには、多くのプロジェクトに取り組まなければならなくなる。そうするとリーダーたちは倍以上働き、自らの幸福や私生活を犠牲にしなければならない。平和構築やフェミニズムを核心的な価値として掲げ、人材を惹きつけ維持する面において、このような資金提供の形はWPMのような団体に直接的な影響を及ぼしている。「本当に制度的な課題です。国際開発分野においてシステムの変化が必要です」とクリーさんは話した。
一度きりのプロジェクトの資金提供だけではなく、コア・ファンディング(事務所費用、常勤スタッフの給与など基本的な「コア」である組織運営コストに活用できる、制約のない財政支援)を通じて市民社会団体を支援する重要性をクリーさんは強調した。「特に市民社会組織を支援するのであれば、プロジェクト毎ではなく、市民社会組織がより強く、しなやかに、イノベーティブになるために、制約のないコア・ファンディングを通じて支援することが必要です」とクリーさんは改めて強調した。
WPMのような市民社会団体を持続するためにはさまざまな資金源を確保することが必要であり、そうすることが若い世代に向けて活気がありダイナミックな市民社会スペースの維持に役立つことになる、と彼女は考えている。「特に市民社会スペースやリソースが縮小していく状況のなかで、市民社会組織としてどうやって対応するかについて考えなければなりません。規模を拡大することではなく、内側から強くなっていくこと。創造的な方法で取り組むべき課題に効果的、かつ効率的にポジティブな影響を与えていくことです」とクリーさんは力強く言葉を紡いだ。
コロナ禍での課題
2020年前半、コロナウイルス感染が全世界に広がり、FLDの活動現場であるカンボジア、タイ、ベトナムなど各国が無差別に影響を受けた。WPMとトヨタ財団助成のプロジェクトにも甚大な影響があった。例えば、WPMでは、FLDプロジェクトの一環として2020年2月下旬にプノンペンでアート展を企画していたが、パンデミックによるロックダウンで開催1週間で閉鎖に追い込まれた。
さらにFLD参加者には失業した人もおり、プロジェクトに携わること自体が難しくなった。コロナ禍で人々の生活における優先順位が一変し、生き残ることが重要となった。「隣人に対して共感を醸成することなんて考えられなくなり、どうやって生き延びるかを考えあぐねていたわけです」とハイマさんは当時を振り返った。
ポジティブな側面として、パンデミックは教訓ももたらしてくれた。不幸中の幸いとして、関係性の大切さに改めて気付かせてくれたことだ。FLD参加者がプロジェクトに関わり続けてもらうことは難しかったが、二人は重要な問いを考えるようになった。参加したい人、参加したくないまたは参加できない人は誰なのか?「さまざまなことを刷新することができました。トヨタ財団のおかげで、状況に適応し新しいことを行う余裕が持てたのです。既存の参加者たちから他に参加したい人達を紹介してもらい、より多くの人々が参加するようになりました」とハイマさんは語った。
その上で、パンデミックから学んだことの一つとして、オープンであることをクリーさんは強調した。「オープンであることを通じて、このような課題を乗り切ったんだと思います。あらゆる可能性、そして困難さ、課題、拒絶されることに対してもオープンでいることです。そのことを通じて、前進するモチベーションを得るのです」と彼女は付け加えた。
WPMとFLD、次のステージへ
これまでを振り返り、二人はFLD参加者たちの経験から学び、特に人間性こそが人々を結びつけるのだと学んだ。人間は皆、安全、伝統、文化を必要とし、それによって帰属意識を持つことができる。FLDによって人々は話しを聞き、他者の側から物事を見られるようになり、共感を醸成できるようになる。「それが大切なんです。政治的または地理的といったさまざまな境界線を越え、そうやって人間同士として繋がれるようになります。全ての人に当てはまることです。そうなって初めて争いを越え、人間対人間として繋がることができます。どんな違いがあろうとも、非暴力的な方法で対応することができるのです」とクリーさんはFLDの重要性を訴えた。
FLDプロジェクトから多くの学びを伝えることを目指し、平和構築の実践者として、クリーさんとハイマさんはWPMの次のステップを模索している。一つの柱が無国籍者の問題だ。これは、トヨタ財団の助成を受けたプロジェクトに関わった、ある少数民族グループから得られた重要な発見だった。「実は、カンボジアで無国籍者の問題に取り組んでいます」とハイマさんは語った。この問題は、アジア太平洋地域の中で一段と議論されるようになってきている。WPMはインドネシア、ネパール、オーストラリアのパートナー団体と協働しており、この問題を地域的な観点から捉えるようにしている。「カンボジアでも重要なこの問題を取り上げる新たなスペースを模索しているところです」とハイマさんは続けた。
実際、コロナ禍初期に中止したFLDプロジェクトの一環であるアート展を、プノンペンではなくクアラルンプールにあるテイラーズ大学で開催する機会を得た。2月下旬、2024無国籍者の問題に関する国際会議(2024 World Conference on Statelessness)が同大学で開催され、無国籍状態を経験または学んだ400名以上のもの人々が世界中から集まり、自らの知識や見解、考えやスキルを共有した。「プノンペンと同じアート展を開いて、大成功を収めることができました。多くの方たちが素晴らしいとの感想をくれました。あの時の延長線上にあるような感じでした」とハイマさんは嬉しそうに語った。
二人が辿る今後の人生での夢
将来を見据えて、二人にはWPMの未来についてビジョンがある。
現在、ハイマさんは博士号取得に取り組んでおり、学術の世界でFLDを研究手法として確立することを目指している。彼は、このような研究を学術的な議論の中に位置づけることが重要だと考えている。「アカデミアでは、FLDはまだ研究対象としては認識されていません。それに挑戦したいのです。私の夢は、このような研究を続けてFLDをアカデミアへと橋渡しすることです。『彼ら』を知るために『私たち』を理解するというFLDに関する本を出版し、学術誌向けの記事を書くことができます。もっと関心と価値をアカデミアでも持ってもらえるようにしたいです」とハイマさんは今後の抱負を語った。FLDを通じて少数民族コミュニティの参加者が生み出す知見にもっと価値を見出して欲しいと願っている。
あまり教育を受けてない家庭で育ったクリーさんにとって、子供の頃の夢は高校を卒業することだった。高校卒業証書だけでなく修士号をも手にした今、特に若い女性にとって教育がいかに大切かを痛感している。「教育のおかげで、今日の私があるので、教育の大切さを本当に信じています」と彼女は力を込めて語った。
彼女は有言実行中だ。WPMは苦労して得た資金を使って地方出身の少数民族の若者たちに奨学金を提供し、彼らの夢である教育を受け続ける機会を与えている。クリーさんは「教育は、人生を変えるんです」と彼女の信念を語った。
クリーさんがWPMに加わろうと決めた時、ジェンダーと平和に関する問題を共に扱い、インターセクショナリティ(交差性:さまざまな差別に関する問題を重なり合っているものとして捉えるアプローチ)とアイデンティティに関して、より深いレベルでの包摂を探求しようと思い描いた。ハイマさんの協力に支えられながら、彼女はこれまでWPMで多くの経験を積んできた。二人は協働し、WPMをジェンダー平等と平和構築に注力する主要な団体にするという夢を共有してきた。長年にわたって大変な旅路を共にしてきた二人だが、少しずつ変化が見え始めている。「今では人々がインターセクショナリティについて話したり、政策立案過程の最前線でマイノリティを取り上げるようになりました。これらに関しては、本当に前進させることができました。でも、まだやるべき仕事はたくさんあります。『二度と繰り返さない』そして『誰1人取り残さない』を実際に現実にするという夢に向けて、皆が各自の役割を果たすことが必要です」と今後についてクリーさんは力強く語った。