情報掲載日:2024年4月17日
トヨタ財団50周年記念事業特別インタビュー
コミュニティアートを通じて、文化を創造する
取材 ◉ 沖山尚美(トヨタ財団プログラムオフィサー)
執筆 ◉ 武田信晃(フリーライター)
助成を受けた「特定非営利活動法人地球対話ラボ」は、zoomなどのインターネットテレビ電話を活用し、日常生活では出会う機会が少ないであろう人々をつなぐ活動に取り組んでいる団体で、トヨタ財団は2017年と2020年の2回に渡り、助成を行った。地球対話ラボ事務局長の渡辺裕一さんと、理事の中川真規子さん、一般社団法人まちとアート研究所代表理事の門脇篤さんに2つのプロジェクトの狙い、今後の展望や期待などを語ってもらった。
助成対象プロジェクト
- プログラム
- 2017年度 国際助成プログラム
- 企画題目
- コミュニティアートが被災地ツーリズムの新局面を提示する日本とインドネシア・アチェの協働プロジェクト
- 助成番号
- D17-N-0256
- 助成期間
- 2017年11月~2020年3月
- 活動実施国
- 日本(東北)、インドネシア(アチェ)
- 企画概要
- 日本とインドネシア・アチェの津波被災地における共通の課題である被災経験の伝承を行った。アチェでのコミュニティアートを通じて、若者の活動基盤やネットワークを構築し、日本での社会観光の展開も媒介した他、震災伝承として製作された映画は三陸国際芸術祭で上映された。日本とインドネシア双方の生きる地域や、アート、震災、環境、ツーリズム等の領域を超えた学び合いを実践した。
- プログラム
- 2020年度 国際助成プログラム
- 企画題目
- 地方在住インドネシア人と地域の人々が協働してつくりだす「外国人材でつながる」文化
- 助成番号
- D20-N-0138
- 助成期間
- 2020年11月~2023年10月
- 活動実施国
- 日本(気仙沼)、インドネシア(ボノロゴ)
- 企画概要
- 現状では単なる労働力のやり取りの域を出ない宮城県気仙沼と東ジャワ・ポノロゴの関係性を軸に、様々なコミュニティアートプロジェクトを展開。外国ルーツの住民と地域住民の交流の場づくり「アジアカフェ」、気仙沼とボノロゴの小学校をオンラインでつなぐ「地球対話」など、外国人材との交流やつながりを通じて新たな地域文化を創造するモデルづくりを行った。
両方のプロジェクトの共通点はインドネシアだが、その中でも「コミュニティアート」が軸となっている。あまり聞き慣れないコミュニティアートとは何か? 渡辺さんは「コミュニティの課題などを捉え直したり、解決したりするようなことを、コミュニティ内にいる人々とアーティストやアートプロジェクトが関わり、アートを使ってすることです。また、アーティストもそこから影響を受けて作品作りに生かされるほか、われわれのような関係団体のメンバーも変化していくという双方向の場が持たれることだと思います」と説明する。
このプロジェクトに渡辺さんらと一緒に取り組んだのが仙台在住のアーティスト門脇篤さんだ。「コミュニティアートは第2次世界大戦後、誰もが文化芸術にアクセスし、生み出す権利があるという文化民主主義の考え方をベースに、ヨーロッパで生まれ、その後、各地で発展してきたものです。アートと言うと『スキルの高さ』とか『比類なきオリジナリティ』などが重要視されがちですが、それらよりも、誰にでもできるような営みの中にある、しかし、その人だからこそ生まれる表現や生き方の方が私には魅力的だと思うのです。そうしたものを可視化したり、誘発したりする活動を言い表す言葉はないものかと思っているときに、『コミュニティアート』という先行事例に出会いました。異なる文化を背景に、互いを知り、自分たちがやりたいことを通して協働することが、互いの理解や学びを深め、モチベーションを高めたりできると考え、コミュニティアート的な手法を活用しました」
助成対象となった2017年のプロジェクト概要について渡辺さんは「東日本大震災の被災地である東北とスマトラ沖大地震の被災地のアチェとが、双方向に関係をもってお互いのコミュニティを変化させていく試みです。主にアチェでのコミュニティアートに取り組みました」
アートを通じて地域社会を作る
門脇さんによると、現地協力者からは、「ジャカルタやバンドゥンならわかるけど、なぜ美術館やギャラリーもほとんどないアチェでアートをやるのか?」と言われたそうだ。しかし、東日本大震災後に仮設住宅で、ただおしるこを食べるだけの場「おしるこカフェ」を毎月開いてきたこと、その中で集まった「ヒサイシャ」と呼ばれる人たちから料理を教えてもらうことで、津波でも流されることのなかった文化的な蓄積を目の当たりにしたり、88歳の女性と被災体験を含む人生を歌ったラップを作ったりといった活動に発展していったこと、そうしたものこそ、自分が日本でやっているコミュニティアートだと紹介すると「アートと言うから何か難しいことをしなきゃいけないのかと思ったけど、それならいつもやっていることだ」とたくさんの若者たちからおもしろい企画が集まったと言う。
具体的な活動として、日本からはパルコキノシタさんによる、東日本大震災で犠牲になった人を思い出しながら木彫りの人形を彫るという取り組みをスマトラ沖地震の犠牲者へとつないでいくワークショップや、村上愛佳さんによる、アチェにもあった奇跡の一本松の「発見」と、それを起点に日本とインドネシア双方の文化の違いを浮き彫りにしていく取り組みが行われた。
一方、インドネシアからは、スマトラ沖地震とそれまで続いていた内戦という非常にデリケートな内容について、子どもたちの演劇に託して伝えようとする、アチェの若者の1人、パルディがコーディネートした3つの子ども支援団体による取り組みがあった。また、同じアチェの若者であるノラは、日本食とインドネシア料理をもとに新たなメニューを生み出し、オリジナル屋台でふるまうことで両国の境界を味覚で行き来しようとするなど、3年間で60にのぼるプロジェクトが行われた。
この背景には「津波に関して日本もアチェも伝承をやらなくてはならない」という危機感もあった。時間が経過してどんどん記憶が薄れ、ポスト津波世代が増えているからだ。渡辺さんは「たとえば、聞き取りをして文章に残すだけではなく、コミュニティアートのやり方でアウトプットできるんだということを伝えました。比較的後期のプロジェクトでボランティアリーダーをやった女性は、後に「アチェ津波国立アーカイブ」に就職しました。彼女はいろんな企画の担い手になり、気仙沼と生中継をつなぐコーディネートをしてくれたほか、われわれが最後にアチェに行ったとき、津波シンポジウムに呼んでくれました。すごく嬉しかったですね」。コミュニティアートは確実にアチェの人々の何らかの行動に変化をもたらしたことは間違いない。
さらに渡辺さんは「若者のエンパワーメントという視点もありました」と指摘する。「子どものころに津波を体験し、海外からの支援が来て、内戦が終わって、戦争状態が終わり平和になったという世代と、その後に産まれて、平和な時代しか知らない世代がいます。戦後の日本の団塊世代とも似ていると思いますが、アチェで津波や内戦からの復興の最初の担い手になったのは、その『ちょっと知ってる』世代です。彼らは、社会変革を考えたり、自分たちが社会を作ったりするんだという意識がすごくある。このプロジェクトは、そういうポテンシャルのある世代が力を発揮する1つのきっかけになったのかなと感じています。プロジェクトでたくさんの経験をした後に、自分でいろんなことを企画したり、団体を立ち上げたりするなど、活躍する人がでてきたからです。関わった若者の中では、映画作家として津波についての作品を発表するようになった人もいます」と助成を受けたことによって生み出されたものは大きかった。
カフェを使って交流を深めていった2回目
「最初は『えー、そんなこと出来ない』と言っていたアチェの子たちが、プロジェクトが終わるころには「『やってよかった』と言ってくれたことに大きな手ごたえを感じました」と中川さんは力強く語ったが、1回目が大きな成果を上げたことが、2回目のプロジェクトにつながった。
その2回目の助成は、同じインドネシアにある東ジャワ州ポノロゴとのプロジェクトだ。渡辺さんは「東日本大震災の前から、気仙沼には漁船員として多くのインドネシア人が来ていました。震災後は復興のための工事や道路の舗装をする作業員として、多くのインドネシア人技能実習生が働きに来るようになりました。彼らは家や道路が壊れた状態のときから気仙沼に入って、街を作り直していくわけですから、『ここの復興を手伝っている。復興の担い手なんだ』という実感を持つようになっていった」とインドネシアの人たちは誇りを持って仕事をしていたと語る。
ところが、市民レベルの相互交流という意味では、様相が異なっていた。「アチェの人たちは宗教的に問題ないことであればどんどんやろうと積極的で、コミュニティアートの取り組みは素晴らしい結果を残せました。そんな中、私の地元宮城県にある気仙沼に、インドネシアから300人にものぼる若者たちが暮らしていることを知りました。しかし、気仙沼で会った人にインドネシアからの人について話を聞くと、『町では確かにたくさん見かけるけれど、話したことはない』と言うのです。海外に行かなくても異文化体験ができるのに、なんてもったいないと思いました。交流の場を作れないか? というのが2回目の出発点です」と門脇さんは実情を語る。
「海外からやってきた実習生が、さまざまな訓練を受けて、日本への期待や希望をもって出発する姿を見てきました。一方で、そうした期待や希望に、私自身は何か返せているのだろうかという思いがありました。自分にできることを考えたとき、まずは互いが出会う。インドネシアの人から感じることの多いポジティブさや明るさを、他の人にも知ってほしいと思いました。互いに学び合えることがたくさんあると思ったのです」と中川さんは言う。
その結果、2回目はコミュニティアートや外国ルーツの住民と地域住民の交流の場作りなどに主眼をおいたプロジェクトを展開していくことになった。気仙沼市役所そばの八日町商店街にある「くるくる喫茶うつみ」がある。毎月1回、店の定休日にお店を借りて「つながるアジアカフェ」を開くことにした。気仙沼に住む外国人の郷土料理をみんなで作ったり、それにまつわる文化についておしゃべりしたりすることで、創造的な交流の場を作るのが狙いだ。
門脇さんは「最初はインドネシア・カフェという名前でインドネシアの食やイスラム文化がメインテーマでした。しかし、場を開いているうちに、地元の商店主や子どもたち、いろいろな国の人々、気仙沼について知りたい学生や研究者、ジャーナリストなどがやって来るようになりました。情報交換をしたり、悩みを打ち明けあったり、気仙沼のカキが入った雑煮を作ったり、地元フィリピン・コミュニティの方に毎年開いているクリスマス会をアジアカフェで開いてもらったり……今では地元の若者も活動の中心になって参加するようになりました」と予想以上の広がりを見せている。
「フィリピン料理のおかゆを出した会がありました。おかゆを食べたインドネシア人実習生は「インドネシアでもこういうおかゆを食べますよ」と教えてくれて、食を入口とした会話のきっかけになりました」と中川さんは補足した。
活動は順調そうに見えるが、実はプロジェクト開始直後から、いきなり大きな壁に直面していた。それは新型コロナウイルスの感染拡大だ。実習生には食品加工関係の企業に勤める人も少なからずおり、交流を図る状態ではないという厳しい現実だった。コロナが落ち着き出した後も、最初はひっそりと始める感じだったという。
ただ、継続は力なりで、企画内容によって来客数の波はあるものの、認知度は確実に向上している。渡辺さんは「この場がきっかけで実習生との関係がじわじわとできてきた結果、実習生が気仙沼の人々に受け入れられたように感じるようになったのか、または、地元の人も実習生に対する考え方とかが変わっていったことで、インドネシア人がそう感じるようになったのか……まあ、その両方だと思いますが、そういう変化はあったと思います」と分析する。
また、インドネシアと東北の子どもたちがオンラインを通じて出会う「地球対話」の活動は、気仙沼小学校で「気仙沼アート小学校」という企画へと発展した。秘密基地を作ったり、DJをしたり、絵を描いたり、話をしたりと、思いおもいの時間を過ごした。まさにコミュニティアートそのものだが、この企画で関係が深まった子どもたちもカフェに来てインドネシア人らと交流するようになるという新しいポジティブな流れが出始めている。
未来の気仙沼
「インドネシア人の実習生たちにとって、他の場所に比べて気仙沼っていいよね、と言われるような場所になっているんじゃないかなと思います」と渡辺さんは交流の成果が出ていることに自信を深めている。
もし、インドネシアの人が気仙沼を気に入り、さらに定住してくれれば、街として新しい活力を生む要因の1つになる。そう考えれば、このプロジェクトの意義はもっと大きな意味を成す。
中川さんは「彼らの間では、気仙沼は地域の人から受け入れられる雰囲気とか、人の感じがいいよ、という情報交換が行われているようです」。これは世界共通だが、一般論として外国人は、言葉と文化の壁があり、最初は言いたいことを言えない、伝えたいことを伝えきれないという、フラストレーションがたまることが必ず発生する。その思いを現地の人がくみ取れるかもポイントになりそうだ。
2024年の春のプロジェクトもすでに進み始めている。「商店街でアートワークショップをやろうと考えています。漁業の町を支えてきた古い商店街には、酒屋やお茶屋、呉服屋、船に食器をおろしていた陶器屋さんなど、歴史のあるいろんなお店があります。今は商売としてそんなに元気がないところも多いですけど、あり余るほどの歴史があります。そういうお店を日本の若者や実習生と訪ね、話を聞いたり、何か一緒にしたりしたらおもしろいんじゃないかな……と」
共存できるコミュニティの在り方
渡辺さんによるとスマトラ沖大地震の津波の時、日本も含めて海外からたくさん支援を受けたアチェの子どもが、成長して大学生や社会人になり、今度は東日本大震災で被災した小学生の交流をサポートするという、国をこえた相互支援や世代間の循環にもなったという。
一方、技能実習は、単なる労働力のやり取りの域を出ないことが多いのが現実だ。労働力としてだけでなく、同じ地域コミュニティのメンバーとしてどう向き合うか、受け入れ側も多くのことが問われている。その意味で、この2つのプロジェクトを継続して助成した結果、両国に学び合いが生まれ、地方が直接海外とつながり、多様性のある地域メンバーがともに生きるコミュニティの可能性が見えてきた。