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【開催報告:レポート編(前編)】トヨタ財団主催シンポジウム みんなと考えるメンタルヘルス ―「アスリート」という生き方を事例に―

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情報掲載日:2023年9月7日

メンタルヘルスの課題をトップアスリートや専門家が発信!

メンタルヘルスの課題をトップアスリートや専門家が発信!

“自分ごと”として向き合う大切さをみんなで考えるシンポジウム(前編)

2023年2月22日、東京国際フォーラムで、トヨタ財団主催のシンポジウム 「みんなと考えるメンタルヘルス―アスリートという生き方を事例に―」が開催されました。メンタルヘルスの課題を“自分ごと”として向き合ってほしいと思い込めたこのシンポジウムは、トヨタ財団が助成する研究プロジェクトの成果の発信を兼ねたもの「アスリートのメンタルヘルスの現状と対策」、そして「アスリートのキャリア形成における就労問題や社会保障」に関して、五輪メダリストなどのトップアスリートと専門家を登壇者に迎え、スポーツに携わる参加者と一緒に考え学びながら、熱い議論が繰り広げられました。シンポジウムの様子は、前編と後編の2回に分けてお届けします。

【第1部】

トップアスリートもメンタルに不調を感じている⁉
会場とオンラインとのハイブリット開催となったこのシンポジウムは、トヨタ財団が支援する2つの助成プロジェクトの成果に基づき開催されました。1つは、国立精神・神経医療研究センター研究員の小塩靖崇さんの「アスリートの、アスリートによる、みんなのための、メンタルヘルス教育プログラムの開発このリンクは別ウィンドウで開きます」。もう1つは、福岡大学法学部教授の山下 慎一さんの「プロスポーツ選手の『2つの引退』から、働き方と社会保障の関係を考える:イノベーティブな社会を支えるためにこのリンクは別ウィンドウで開きます」です。

第1部は、「アスリートと考える次世代のメンタルヘルス」というテーマで、メンタルヘルス専門家の小塩さんが登壇。トップアスリートを取り巻くメンタルヘルスの現状とご自身の活動について発表されました。

アスリートのメンタルヘルスというワードに聞き馴染みのない方は多いと思いますが、海外ではアスリートのメンタルヘルス不調について報告されており、チームスポーツにおける調査では45%もの男性アスリートが不安を感じ、うつなどを経験しているとのこと。スタッフを含めた「組織全体でこの問題に取り組む必要性」と、メンタルヘルスリテラシーの底上げやケアの専門家の育成といった「教育医療研究の推進の必要性」が課題に挙がっているそうです。

一方、日本でのメンタルヘルス不調に関するアスリートの研究データはほぼなく、小塩さんはトヨタ財団の助成を契機に、日本ラグビーフットボール選手会と共同で「よわいはつよいプロジェクト」を2019年に立ち上げ、ラグビートップリーグの男性選手にアンケート調査を実施しました。すると、回答があった251人のうち、約42%の選手が心理的なストレスを感じたり、うつや不安障害のある疑いを経験したりと、何らかの精神的な不調を経験。約8%の選手は直近の2週間に「死にたい」と考えていたことが明らかになりました。

屈強な体で強靭な精神の持ち主というイメージのトップラグビー選手もメンタルヘルス不調を経験している現実が示され、不調に陥ったときに周囲に相談しない現状なども明らかに。小塩さんは、相談しやすい環境を作る必要性もあると指摘されました。


弱さをさらけ出すことは悪いことではない
「よわいはつよいプロジェクト」の紹介では、立ち上げメンバーで現役ラグビー選手の川村慎さんと、プロジェクトのネーミングなどを考案したコピーライターの吉谷吾郎さんも登壇。川村さんは、レギュラーとして試合に出場できなかった時期にメンタルヘルスの不調を感じた自らの経験から、アスリートのメンタルヘルスをサポートするシステムの重要性を強く実感し、小塩さんという研究者との出会いもあって始動に至ったとのことでした。

吉谷さんは、そんなメンバーと議論して「まちがいを認めること、 嘘のない自分であること、まわりの目を恐れないこと、孤独とうまく付き合っていくこと、そんな自分のよわさに真正面から向き合うには誰だって勇気がいる。誰もがよわさをさらけ出せて、よわさを受け容れられる社会へ」というビジョンを作成。「弱さは誰もが持っていて、さらけ出すことは悪いことではない。みんなが弱さを交換し合えば、みんなの強さを活かしあう社会にできます」と説明されました。さらに「金魚の水槽」を例に出し、「病気なった金魚を治すために、お薬の点滴を水槽の水に垂らす方法があります。でも、垂らし続けなければいけないので、その薬がなくては生きていけない金魚になってしまいます。そうではなく最善の解決策は、水槽をきれいにして酸素を送り込むことです。つまり『環境』を改善するほうが金魚は元気になる。同じように我々の取り組みは、その場限りの対処ではなく、『選手の悩みを聴ける人を増やそう』といった水槽に当たる社会や環境へアプローチすることです」と話されました。

第1部プレゼンテーションの様子
第1部プレゼンテーションの様子:左から横浜キャノンイーグルス所属プロラグビー選手の川村慎さん、クリエイティブディレクター・コピーライターの吉谷吾郎さん、国立精神・神経医療研究センター研究員の小塩靖崇さん

【第2部】

アスリートにとっての「メンタルヘルス」とは何か
第2部では、「アスリートを取り巻くメンタルヘルスの課題」をテーマに、3人の専門家による講演が行われました。トップバッターは、五輪メダリストでスポーツ心理学者の田中ウルヴェ 京さん。「トップアスリートのメンタルヘルスとキャリアの課題」をテーマに、下記の3つの課題を提示されました。

[1]選手ならメンタルも強くあるべき
[2]メンタルのことは他人に言いにくい
[3]どんな心理専門家がいて、何をするのか分からない


ウルヴェさんがシンクロナイズトスイミング(現・アーティスティックスイミング)の現役選手時代だった約40年前は、ケガによる痛みですら口に出せず我慢する時代だったそうです。メンタルも同じで、[1]のように「アスリートは強くなければいけない」という風潮があるため、[2]のような言えない状況になっているとのこと。特にトップアスリートになるほど、「強くあるべき」と世間から見られる自分とのギャップに苦しむ傾向があると言います。[3]に関しては、国内外問わず、精神科医や臨床心理士などの専門家が何をするのか分からないといったスポーツ関係者は多く、まずはメンタルヘルスのリテラシーを高めるような、それぞれの実態に合わせた支援構築を進める必要性を強調されました。

そもそもメンタルヘルス(心の健康)とは、WHO(世界保健機関)によると「内面的幸福感」(a sense of internal well-being)と定義されています。well-beingとは「本人にとって心地よい、自分が自分でいる状態」だとウルヴェさん。その状態になる方法として、「焦っている自分」「イライラしている自分」といったストレスの正体に気づいて自らで対処するトレーニングや、勝ち負け以上に「なぜ勝つことが必要か」と自分と向き合って考え、「弱い自分と戦うこと」などと気づくトレーニング、well-beingが高いときとそうでないときに使う言葉が違うことをノートに記録しながら気づくトレーニングなど、ウルヴェさんが実際にサポートされていたボクシング五輪メダリストの村田諒太さんなどの実例を交えて紹介されました。

最後に今後の課題として、「メンタルヘルスについて知る」「専門家について知る」「主体的に助けを求める方法を知る」「自分を助け、鍛える能力を高める」といった4つのポイントを掲げ、「現場での事例と先行研究を元にメンタルヘルスの知識を広めていきたい」と強調されました。


「表現の自由」はSNSの誹謗中傷を許すのか
次は、憲法学の専門家である東京都立大学法学部助教の小川亮さんと、小川さんのいとこで卓球五輪メダリストの石川佳純さんが特別ゲストとして登壇。「憲法学から考えるアスリートへの誹謗中傷対策」をテーマにした解説と意見交換が行われました。

まず、石川さんがアスリートの立場から、昨今のオンライン上の誹謗中傷問題についての率直な想いを述べられました。「ネットニュースのコメント欄に書かれた自分への誹謗中傷や、事実とは異なる内容を見たときは、ものすごく落ち込みます。以前、インターネット上の誹謗中傷が削除されないことに疑問を感じて周囲に相談したとき、『言論の自由があるから……』と言われました。理解はしたものの、納得できない気持ちは残っています」。

「言論の自由」は「表現の自由」の一部であり、投票や法律の制定につながり、ひいては国民の利益に影響するため重要視されていると小川さん。ただ、対等に議論できる環境があってこそ「表現の自由」は成り立つものであり、インターネットのような特殊なコミュニケーションの場では対等に議論がしにくい現実を指摘されました。

「『アスリート=メンタルが強い』『アスリートはこうあるべき』といった世の中の印象によりアスリートは意見しづらかったり、『人気』が重要な芸能人の方は反論できなかったりする状況は、対等に議論し合える前提の『表現の自由』にはなり得ない。つまり、インターネット上の誹謗中傷が『表現の自由』『言論の自由』によって守られるという話にはならないでしょう」と小川さん。

特別ゲストとして登壇された石川佳純さん(左)と、いとこでもある東京都立大学法学部助教の小川亮さんのお二人
特別ゲストとして登壇された卓球五輪メダリストの石川佳純さん(左)と、東京都立大学法学部助教の小川亮さん

そんな中、インターネットでの誹謗中傷によって命を落とされた著名人の事件などをきっかけに、2つの法改正が行われたそうです。1つは「プロバイダ責任制限法の改正」で、損害賠償請求の裁判によって、SNSに誹謗中傷を書き込んだ人がこれまでより簡単に特定できるようになったこと。もう1つは、1万円以下の罰金など刑罰が軽かった侮辱罪が、30万円からの罰金になるなど刑罰が重くなったこと。

「今後はこの法改正の効果を見守ることになります。ただいずれも、誹謗中傷の被害を受けた後に被害者がコストや手間をかけて裁判を起こし制裁を加えなければいけない。根本的な改善として、インターネットの特性を踏まえた表現の自由論の構築化が重要だと思います」と指摘されました。

法律の知識や見解を隣で聞いていた石川さんは、「SNSを見ないという対策もあると思います。でも、生活する中でSNSと付き合っていく必要はあり、SNSを通じて応援してくださる人々の言葉は選手にとってとても励みになります。私やアスリートだけでなく、誹謗中傷で傷つく人はたくさんいると思うので、社会全体として向き合っていくべき問題だと思います」と感想を述べられました。


“2回引退がある”アスリートの社会保障とメンタルヘルス
第2部の最後となる登壇者は、トヨタ財団の助成対象者である福岡大学法学部教授の山下慎一さんこのリンクは別ウィンドウで開きますです。「アスリートの『2つの引退』と就労・社会保障」というテーマで、メンタルヘルスの課題にも触れながらオンラインで解説してくださいました。

山下さんの研究は、アスリートの就労・社会保障の現状を明らかにするものです。ポイントは、「アスリートは2回引退する」という視点。1つ目は、選手としての現役の引退(引退[1])。2つ目は、65歳を目途にした老齢期でセカンドキャリアとされる仕事からの引退(引退[2])。アスリートは、2つ目の「引退」に関して独特の困難があるという仮説を立て、調査を進められました。

「日本の社会保障では、正社員に比べ自営業者や個人事業主の社会保障が手薄になります。例えば、アスリートが企業の実業団に属する会社員だった場合、引退・退職すると失業保険を受給できる。しかし、日本のプロスポーツ選手は自営業者・個人事業主の場合が多いため、失業保険は受給できません。さらに『引退[2]』では、自営業者・ 個人事業主は国民年金なので月の平均受給額は5万6000円になり、会社員の年金額と10万円ほどの差が生じます。この額での生活は難しく、認知症になったときに老人ホームにも入れないなどの困難が生じるリスクも考えられます」と山下さん。

個人事業主のプロスポーツ選手の社会保障が手薄になる状況を解決するためには、貯蓄や資産形成で「選手が自己責任で対処」や「社会保障の改革」のほか、「選手会・スポーツ界で対処する」という方法も考えられます。この3つめの点に山下さんは着目し、現状を調べました。

オンラインで登壇された福岡大学法学部教授の山下慎一さん
オンラインで登壇された福岡大学法学部教授の山下慎一さん

その結果、現役引退時にお金を給付する「金銭給付モデル」と、社員として雇用したり、次の就職先を斡旋したりする「雇用保障モデル」の主に2つのケースがあると紹介。ただ、「金銭給付モデル」が実現できる競技団体は少なく、一方で「マッチングサイト」や「ビジネススキル講習」を提供する「雇用保障モデル」が多いことも明らかになりました。

「引退[2]」に関しては、米国のメジャーリーグなどでは選手時代の功績に応じた選手年金のような仕組みがありますが、日本のスポーツ界にはそうした仕組みがほぼなく、現役引退後、スムーズに次の職を得て老後を見据えた年金・資金形成が必要だと分かりました。

このような結果を踏まえて山下さんは、「アスリート引退後のお金と職」と「メンタルヘルス」の話をこれまで分けて考えすぎだったのではないかと指摘されました。「現役引退後にお金があれば、あるいは職業に就ければすべて安泰かと言えばそうではない。引退後の職業が本当に自分のやりたいことなのかと悩む人もいます。自分の人生の最適解が選べるような、相談できる仕組みを用意するなど、生きることに対する総合的な支援が必要だと思う」と述べました。さらに、こうした研究や取り組みをスポーツ界が積極的に発信することで、個人事業主・非正規雇用などで働いている人々の社会保障といった、社会全体の課題解決に役立つはずだと発表を終えました。

構成/高島三幸

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