公益財団法人トヨタ財団

活動地へおじゃまします!

11 どんなに大変な事業でも、コツコツと続けて達成する

宮城県山元町にて

取材・執筆:本多史朗(トヨタ財団プログラムオフィサー)

活動地へおじゃまします!

 今号の「活動地へおじゃまします」は、宮城県の山元町で活動していらっしゃる「山元町震災復興土曜日の会」を訪問してまいりました。

[訪問先]
宮城県山元町「山元町震災復興土曜日の会」
[助成題目]
宮城県山元町における震災復興をめざす継続的な住民活動

交通の動脈である常磐線の復旧が大きな課題

宮城県山元町周辺地図

山元町は、太平洋側に面した宮城県の最南部に位置し、福島県の最北部と境を接しています。東日本大震災の際には津波による甚大な被害を受けました。

山元町の中心部にあるJR常磐線山下駅は、震災前には仙台駅からの所要時間はわずか45分でしたが、海岸線に比較的近いところを走っていた常磐線が津波に直撃された結果、山下駅の一つ手前の浜吉田駅から相馬駅までの間は不通になっています。そのため、山元町へ行くには途中の亘理駅から、代行バスに乗り換えなければなりません。その結果、仙台駅―山下駅間は現在80分以上かかります。この交通アクセスの問題は、仙台市のベッドタウンとしての性格を持つ山元町の復興に影響を与えています。これについてはまたあとで触れます。

また、山元町は、阿武隈高地から仙台湾にかけての広い空間からなっています。この結果、被災者の皆さんがお住まいの仮設住宅も町内のあちらこちらに散在しています。それゆえ、行政と被災者の皆さん、被災者の方々同士のコミュニケーションや意志の統一に手間がかかることは想像に難くありません。

私たちが仙台駅から常磐線と代行バスを乗り継いで山元町に着いた折に出迎えてくださったのは、「山元町震災復興土曜日の会」の菊地慎一郎さんです。後から合流された前会長の砂金政宏さんとご一緒に、私たちを町内、特に津波の被害が激しかった浜通りを中心に案内してくださいました。

今、山元町の中は土砂を満載した大型トラックが走り回っています。阿武隈高地の中腹にある行政の中心と、津波で全壊した常磐線の旧山下駅の中間点の平地にトラックが土砂を運び込み、巨大な盛土を造成しています。この盛土の上に、海岸沿いを走っていた常磐線を移設して、新しい山下駅を作ろうとしているのです。さらに、その周囲に復興公営住宅を建設して被災者の方々に移転してもらい、商業施設を呼び込んで、いわゆるコンパクトシティを作るのが行政当局の考えです。

驚いたのは、津波の打撃の痕が生々しくのこる建造物がいくつもあったことです。特に常磐線沿いにそれが見て取れます。荒れ果てた駅舎、レールが撤去されてそのままに放置されて草茫々となっている線路跡などです。やはり、交通の動脈である常磐線の復旧が、山元町にとって大きな課題であることがうかがえます。

ハード面での復興と人口流出の懸念

常磐線跡地
常磐線跡地

今回、山元町でお目にかかった復興関係者の方々が口をそろえられたのが、人口流出の問題です。東日本大震災前の2010年末には17000人前後いた人口が、2014年の初めには13000人強にまで減少しています。宮城県の統計を見ても、女川町に次いで大きな人口減少が起きているのが、山元町なのです。大まかに言って、約4分の1の人口が、発災後に町外に流出したことになります。事実、案内していただいた仮設住宅を見ても、櫛の歯が抜けたように空き家ができていました。町外に移転された被災者が住んでいた住宅です。

この人口流出の背景にあるのも常磐線の問題です。防災を重んじるため、常磐線を内陸部に移そうとしているわけですが、完全に復旧するには早くて今後3年かかると見込まれており、それまでは代行バスによる長時間の移動に耐えなければなりません。仙台市やその近郊に職場を持つ町民の方々は、この負担を避けるために山元町を離れ、仙台近郊に住居を移していると聞きます。常磐線の線路それ自体は生き残っていたので、暫定的なものでよいから、本格的な移設、復旧までの間、旧駅まで直通運行をしてくれればよかったのにという声も聞きました。

むろん、行政当局の方でも、この人口流出の問題は熟知しています。山元町の復興まちづくりの青写真を見ても、新しい駅を中心とした商業施設とコンパクトシティを切り札にして、新しい人口に流入してもらおうと考えているのは明らかです。ただ、この青写真にすべての方が納得しているわけではないようです。その背後には、ハード面での復興を完璧に行っても、果たして人口の流出が止まるのだろうかという、東日本大震災被災地に共通した懸念があります。

困惑を落ち着かせ、町民のエネルギーを結集する

「山元町震災復興土曜日の会」は、この復興まちづくりの過程に被災者の意見をよりよく反映させようとして結成されました。法人格を持っていない任意団体ではありますが、メンバーの中に、普門寺という曹洞宗の禅寺の住職さんらが入っているために、寺の一角を会議、作業スペースとして使えるという強力なアドバンテージを持っています。土曜日の会という名称それ自体も、普門寺で毎週土曜日夕刻に定期的に会合を開くことに由来しています。

このグループの考えが結実しているのが、毎月一回、町内の全世帯に向けて発行をしている「いちご新聞―山元町震災復興土曜日の会だより」です。トヨタ財 団が助成を実施したのも、この復興地元紙の発行です。試みに、ある号に掲載されている被災者の方の悩みを列挙します。「集団移転の候補地の選択肢が少ない ので、コミュニティが寸断されるのでは」、「JRや県道の移転や整備について、町からの情報が不足している」、「避難道路の整備が示されない」、「漁民や 農民共に港や田畑、作業場に(公営住宅から)遠いと非常に困る」、「町は移転先を限定するのか」などなど。被災者の方々の復興に対する困惑がリアルに伝 わってきます。

土曜日の会前会長砂金氏宅。残った梁はそのまま使う
土曜日の会前会長砂金氏宅。残った梁はそのまま使う

この困惑を落ち着かせ、復興に向けて町民のエネルギーを結集するためにも、今後、行政当局と被災者の方々の間のより一層のコミュニケーションが必要になると思われます。その意味で、両者の中間に位置する「山元町震災復興土曜日の会」の役割は大きいはずです。

今回山元町を訪問した際に印象に残った風景が一つあります。それは砂金政宏さんのご自宅です。津波の直撃を受け、柱だけは何とか残ったものの、内部がめちゃくちゃになったご自宅を、砂金さんは、コツコツと自力で再建しておいでです。家の土間には、のこぎりやチェーンソーなどの工具がたくさんおいてあります。砂金さんは、「修繕費が1500万円ほどかかると聞いて、ばかばかしくなり、自力で直すことにしました。でもやってみると大変なんですよぉ。ホームセンターで工具を購入して始めたものの、なかなかはかどりません。何とか今年中には終わらせたいんですが。こんなに大変だと知っていたら始めませんでしたよぉ」とにこやかに話されます。

知っていたらやらなかったはずの大変な事業でも、やり始めたらコツコツと続け、いつの間にか達成する。これこそまさに、山元町震災復興土曜日の会、更には山元町全体が復興に向けて取り組んでいることではないでしょうか。

旅のアルバム

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公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.15掲載
発行日:2014年4月22日

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