取材・執筆:大澤香織(トヨタ財団アシスタントプログラムオフィサー)
活動地へおじゃまします!
研究助成プログラム中国案件の現場へ
研究助成プログラムで2008年、2009年度から助成を行ってきた2件の研究の現場におじゃまするため、2011年1月初旬、真冬の中国大陸を訪れました。日本でも連日のようにメディアで取り上げられる巨大なアジアの隣国ですが、変わりゆく中国社会のなかでトヨタ財団のささやかな助成金が一体どのように活かされているのかと、期待と不安の入り混じった気持ちを胸に旅立ちました。
- [訪問先]
- 中華人民共和国 四川省資陽市
周歓(ツォウフアン)
(2009年度研究助成プログラム助成対象者) - [助成題目]
- 中国の地方コミュニティでの残留児たちの健康的かつ活発な生活をめざして
農村にとり残される子どもたち
最初の目的地、「農村残留児の健康づくり研究プロジェクト」の現場を目指し、凍てつく朝の北京から空路を南西に1800キロ、荒涼たる大地を眼下に眺めて2時間半もすると四川省成都市に到着します。ジャイアントパンダの生息地として知られる四川省は、盆地のため温暖で湿気がこもりやすく、常に厚い雲に覆われていることから「蜀犬吠日(四川の犬は太陽が出ると驚いて吠える)」という諺があるほど。到着したその日もやはりどんよりとした曇り空でしたが、かわりに成都の空港を出たところで、可愛らしくもどこか笑えるパンダのマスコットが両手を広げ迎えてくれました。ここで研究代表者の周歓さんと落ち合い、今度は車で2時間、郊外の農村に位置する資陽市南津鎮へと向かいます。
日本への留学中に国際医療の博士号を取得された周さんによると現在、中国全土で農村から都市へと出稼ぎに出ていく労働者は日本の総人口に匹敵するほど存在し、親が不在の農村に残される14歳以下の児童は2300万人にものぼるそうです(こうした子どもたちは中国語で“留守児童(リウショウアートン)”と呼ばれています)。なかでも人口9000万人を抱える四川省は、出稼ぎ労働者をもっとも多く他省へ送り出しているため、残された子どもたちの健やかな発育が特に重要な国家的課題として捉えられています。
南津鎮劉家村の街中に到着すると、路肩にはおばあさんと幼い子どもたちばかりいるのが目につきます。聞けば地元の小学校に通う児童約600人のうち実に約7割が片親、もしくは両親共に不在の環境で育ち、大抵は祖父母とともに暮らしているそうです。「中国の農村は今やすっかり3、8、6、1、9、9です」という周さんの言葉に「?」を顔に浮かべていると、「中国では3月8日が婦人の日、6月1日が子どもの日、9月9日が敬老の日なので『女性と子どもと老人しかいない』という意味ですよ」とのこと。まさにその言葉どおりの光景です。
この村で周さんは地元小学校の全児童を対象として心理面、身体面、学力面での発育や生活習慣について調べ“留守児童”とそれ以外の児童を比較、統計学的に有意な差があるかどうかをみています。また地元政府を含め児童を取り巻く大人たちへの意識調査も実施して、残された子どもたちの健康を学校を中心とした地域全体で支える方策につなげようとしています。実際に小学校を訪問すると、ちょうどあと3日で冬休みに入ろうというところ。寒空の下、児童たちがゴム毬のように跳ねながら遊んでいます。一見するとどの子も健康で元気そうに見えますが、地元の小学校教師として16年のキャリアのある尹先生は「留守児童は体つきも小さく、家で勉強をみるはずの祖父母が読み書きができないので成績も悪いです」と顔をしかめながらおっしゃいます。心の発育についても「低学年の内はまだ親と暮らす児童とあまり変わらないけれど、年齢が上がるにつれコミュニケーション下手な子が増えるような気がします」とのこと。「旧正月にも帰ってこない親も多いので、もう何年も両親に会っていない子も多いのです」。しかも、こうした留守児童はこの小学校では毎年、増え続けているのだそうです。
周さんは「私は本当に子どもたちのためになる研究がしたいのです。地元政府は、留守児童は親からの仕送りがあるから経済的に問題ないという間違った認識の下、積極的な施策は打ち出してくれません」と話します。このプロジェクトでは、周さんの研究室の大学院生たちも活躍しています。今回の訪問では残念ながら児童たちの家を訪れることはできなかったので、ここでは学生たちが留守児童の家庭を直接、訪問した際にまとめた記録の一部をご紹介します。
「……小学生の張智玲ちゃんは4人兄弟。おばあさんと寝たきりのおじいさんとの6人暮らしです。山道を1時間余りかけて案内してもらいたどり着いた家は空っぽで、家具など何もありません。服や食事の後の食器が散らばり、衛生状態はよくないようです。77歳になるというこの家のおばあさんは、畑仕事から戻ると家の事情を熱心に語ってくれます。4人の子どもと寝たきりの夫の他、まだ世話をしなければならない姉もいる、智玲たちの母は子ども4人がまだ幼い頃、貧しさに耐えかねて家を出ていった……と。食事は智玲ちゃんが用意するそうですが、彼女の弟も妹も皆、小さな体つきをしています。お父さんは内モンゴルへ出稼ぎに行ったきりもう何年も帰ってこないので、智玲ちゃんはとても寂しいようです……」
こうした各家庭でのインタビュー調査に参加した学生たちは、大きなカルチャーショックを受けるのだそうです。学生たちは皆、都市で育った都会の人間であるため、留守児童の生活環境は同じ中国人である彼らにとっても想像以上に厳しいものです。大都会の成都とは車でたった2時間の距離なのに……と、そのような事実一つに触れても都市と農村の生活の格差を実感します。訪問も終わりに近づく頃、おばあさんと手をつないで家路につく小さな子どもたちを見送りながら、彼らの幸せな将来を願わずにはいられませんでした。
- [訪問先]
- 中華人民共和国 天津市
青木信夫
(2008年度研究助成プログラム助成対象者) - [助成題目]
- 開発の最前線における文化遺産の保存と地域の活性化に向けた戦略的国際共同事業─中国北方経済センター天津における緊急的都市保全計画と研究拠点の形成
開発の波にさらされる文化遺産
それでは、四川で出会った子どもたちの親の多くが出稼ぎに出てゆく都市の開発の最前線では今、何が起きているのでしょうか。次なる目的地は北京の南東に位置する天津市で青木信夫教授らのチームが取り組む「文化遺産保存研究プロジェクト」です。北京南駅からオリンピック直前に開通した最新鋭の高速鉄道に乗れば、わずか30分で天津駅に到着します。“和諧号”の車内はとてもきれいで、プラットフォムもまるで空港かと見まごうばかりの立派さです。旧式の中国らしい「鉄道」の旅を思い描いていただけに、少し拍子抜けしたような気分にもなります。
天津は近代史において重要な役割を演じた港町の一つで、アロー戦争後、日本を含む9ヵ国もの租界が設けられていました。北京を東京にたとえれば、天津は横浜のような街で、外国との窓口らしく人口1100万人の大都市に成長した現在も、旧租界の街並みや鉄道・造船・造幣など近代化遺産が数多く存在しています。
青木教授は2006年、こうした文化遺産保存のために中国側の特別招聘を受け、天津にやってきました。天津大学の正門から入ると、細長いキャンパスのなかでも建築学院は一番奥の正面にそびえ、他学部の校舎が両側に肩を並べているのに比べると、いかにも“看板学部”といった趣です。通された部屋でお会いした研究メンバーの方々は、建築工学という分野にも関わらず意外にも女性研究者がほとんどです。「中国の仕事では女性に支えられてばかりです」とおっしゃる青木教授は、これまでの研究実績が認められ、新設された中国文化遺産保護国際研究センター所長としての活動も始められています。
大学で一通りお話をうかがった後、寒風吹きすさぶ天津の街へ出て、実際に旧租界地を案内していただきました。まずは旧日本租界です。「ここはこぢんまりとはしていますが、保存状態は悪くないですね」。そう言われて街を眺めると、商店が軒を連ね雑然と生活感溢れる街並みですが、建物のデザインからはかすかに生きた歴史も感じられます。日本租界は市中心からはやや外れたところにありますが、その目立たなさが幸いし、当時の面影を残す建築物が比較的よく残されているのだそうです。
ここ旧日本租界の一角にはラストエンペラーで知られる愛新覚羅溥儀が満洲へ赴く前に2年ほど暮らしていたという旧居、静園もあります。青木教授が天津に赴任したばかりの頃、静園は一般公開に向け、大規模な修復保全作業がなされるところでした。それまでは数十年間にわたり、40人以上の天津市民が一般住居として使っていたそうです。青木教授はこの修復作業に大きな関心を抱いていたそうですが、残念ながらそのプロセスには一切関わることはできなかったとのこと。「見てください、この壁。ピカピカした素材で、もとの日本風の書斎が台無しです」と、やるせない口調で言うのは共同研究者の徐蘇斌さん。建築学院の教授で日本語も堪能な徐さんは長年、青木教授の研究を支えてきました。国際的なスタンダードに照らせば文化遺産の修復作業というのは、当時の写真など歴史的資料や考証に基づき丁寧に行われるべきものです。しかし、ここでの修復作業は必ずしもそのようには進みません。「中国ではこういう作業は、本当にあっという間に行われてしまいます」と溜息交じりに話します。
ここ旧日本租界は、残念ながらまだ国の文化財保存指定区域とはなっておらず、天津市政府の思い一つで、いつでも文化遺産としての価値の高い建物の取り壊しが可能です。実際に旧フランス租界などでも、文化遺産としての価値の高い建造物の取り壊しが進められそうになったそうですが、メディアも巻き込んだ市民グループの反対運動に遭い頓挫してきました。実は青木教授らの研究グループもこれまでに天津市文物局の委託を受け、旧租界地全体に関して国の文化財指定を受けるための分厚い申請報告書を作成し、保存の動きを後押ししてきました。しかし結局、市に採用されたのは、その一部である旧イギリス租界だけであったとのこと。文化遺産が国の文化財指定を受けてしまうと、その地域を自由に開発することが難しくなるため、“開発を前提とした保存”を望む市が、必ずしも全ての地域の申請に積極的ではなかったためです。そんな、地域の政治の難しさのなかで研究を進められている点についてうかがうと、青木教授は「もちろん、市が他の旧租界地を国への保存指定申請地域から外したことはとても残念です。でも焦りは禁物。まずはこれが最初のステップだと思っています」とおっしゃいます。「新しい街を作るのは良いのですが、開発により伝統、空間、建物、全てが失われてしまうのは忍びない。開発があるからこそ、新しい文化が生まれるのだとも言えますが。私は文化遺産保存というメガネを通して、『今の中国の認識』を探ってみたいと考えているのです」とお話ししてくださいました。
青木教授は実際の保存活動にとどまらず、さらに深いところから中国における文化遺産保存の現状を変えていこうとしています。天津大学内にも、大学院生を対象とした「文化遺産学」コースが新設されることになりました。指導教官の下、なかなか自分の問題意識を持たない傾向が強いという中国の学生たちにもよく考えてもらう機会を与えたいとのこと。研究活動のみならず、教育の場でも“建築=儲かる仕事”という今の中国社会に跋扈する考え方に取り組もうとする、青木教授の情熱には本当に頭が下がります。さらに「文化遺産保存を真に進めるためには、市の役人の考えを根本的に変えなくてはなりません」ということで、天津市の幹部が文化遺産保護について学ぶためのトレーニングコースも発足させたとのこと。フランス文化局などと提携を結び、現在、詳細を詰めているのだそうです。
青木教授は、十年ほど前にも別の中国での文化遺産保護に関してトヨタ財団の研究助成を受けられたという経緯もあり「他の中国人教授たちと違って、私は中国でアルバイトをするわけにもいきませんし、トヨタ財団の助成金には本当に助けられています。私のような研究者が中国にいることもぜひ忘れないでくださいね」と笑いながら話してくださいました。隣国と言えども、なかなか日本との相互理解が深まったとは言い難い中国で奮闘される青木教授。利害と利害のぶつかり合う社会変化の最前線でこそ、優れた研究が国を越えてその力を発揮するのだと思います。
今回は、中国の農村と都市で2つのまったく異なる研究の現場におじゃましました。地域の状況や取り組むテーマは違いましたが、よりよい社会に向けた変化は、個々の文脈のなかに自らの役割を見出せる研究者の眼力と、人びとを巻き込んでゆく戦略的な情熱から生み出されるのだと感じました。旅先でお世話になった皆様、本当にどうもありがとうございました。
公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.6掲載
発行日:2011年3月17日