公益財団法人トヨタ財団

活動地へおじゃまします!

16 「「他者」たちが集まり未来を紡いでいく」京都府南山城村の童仙房を訪ねて

睡蓮
童仙房で見かけた睡蓮の花

取材・執筆:新出洋子(トヨタ財団広報グループ)

活動地へおじゃまします!

京都府南山城村

7月某日、京都府南東端に位置する京都府唯一の村、南山城村の童仙房という地区を訪れました。同地区へは京都駅から車で2時間強。お茶の産地として有名な和束町を通過し、三重県、滋賀県にもまたがる三国越林道を通っていくと、標高約500mの山頂付近に集落が忽然と現れます。

童仙房は江戸時代までどこの藩にも属さず、無人の山でした。まだ旧幕府軍と新政府軍が戦っていた1868(明治元)年に京都府が開拓を計画、翌年には開拓に着手し入植が開始され、廃藩置県が行われた1871(明治4)年に162戸の童仙房村として開拓が完了しました。当時は一戸につき田んぼ四反、畑八反、山林二反が与えられて開墾が進みました。ピーク時には200戸を超えていたそうですが、離村が進み、1912(大正元)年には47戸までに減少します。そののち戦後の開拓で再度人口が増加。1953(昭和28)年の南山城大水害を乗り越え、現在は80戸余り・200人弱が暮らしています。(2016年7月の調査結果より)

[訪問地]
京都府南山城村 童仙房地区
[助成題目]
教育における時・空間の統合の研究──京都府・童仙房地域を中心にしたフィールドから学べるもの──

生涯教育の概念を見直す

広大な茶畑
広大な茶畑

今回は、前平泰志氏(畿央大学・教授)が代表を務める研究助成プログラム2015年度助成プロジェクト「教育における時・空間の統合の研究─京都府・童仙房地域を中心にしたフィールドから学べるもの─」の第一回研究報告会(昼の部と夜の部を開催)に出席させていただきました。会場となったのは2006年に廃校になった野殿童仙房小学校。廃校後の跡地活用を模索していた地区住民の方々は、当時京都大学で教鞭を執っていた前平氏にはたらきかけ、その結果、野殿地区、童仙房地区が自主的な取り組みとして同大学院教育学研究科と提携し、野殿童仙房生涯学習推進委員会を設立しました。この縁を機に前平氏は10年以上にわたり地域住民と協働してさまざまな活動を続けてこられ、トヨタ財団では2015年度に2年間プロジェクトとして助成を開始しました。

助成プロジェクトでは、「教育」とは、学校という空間の中において就学期間中という限られた時間内に行われるだけではなく、その人の生涯にわたって行われる自己形成のプロセスであり、また、それは地域社会と不可分の関係にあるということを実証的に明らかにしようとしています。

プロジェクト代表の前平泰志氏
プロジェクト代表の前平泰志氏

個人の誕生から死までの各時期における教育を関連づける「時間的統合」と、あらゆる教育機関や機会を関連づける「空間的統合」を包含しようとする生涯教育の理念は、必ずしも研究や実践に結実したとはいえませんでした。

たとえば、教育が行われる空間である「学校─家庭─地域社会」の構図は、これだけが強調されると個人の時間軸が見過ごされてしまいます。一方、ライフヒストリーに関心が強く注がれる場合、その個人が生活する空間にまで視点が向くことがなかったのです。

前平氏の研究プロジェクトチームでは、これまでの断片的な生涯教育の概念を見直すことにより、より広い時間と空間の中で人間形成がなされていくことの理論化をめざしています。

童仙房地区での報告会

旧野殿童仙房小学校
旧野殿童仙房小学校

この日の報告会では、これまで童仙房地区で住民の方々にヒアリングを重ねてきた地区の歴史、食に関する伝統、子どもの教育などについて研究チームのメンバーから発表がありました。お昼の部は住民の女性たちが来やすいようにとの配慮で16時からの開催。男性や小学生も含めて15人ほどが旧野殿童仙房小学校の校舎に集まりました。まずは前平氏から「童仙房の時間と空間」というタイトルで報告があり、童仙房の研究をするというときに歴史の研究だけで良いのかという問いかけから、ここで暮らす人の歴史と現在、モノの歴史と現在、自然の歴史と現在を調査することは、すなわち住民の方々と話すこと・聞くこと、場所(空間)の歴史、時間と農・食について調査することであると、これまで活動してきた内容と、研究プロジェクトチームが取り組んできたことをわかりやすく説明してくださいました。

生駒佳也氏(徳島市立高校・教諭)は、『「他者」たちの村の歴史』というタイトルでの報告。童仙房の特徴として住民組織が一番から九番までの地区をもとにした「組」を基礎としていること(自治会のような役割をもつ)、また開拓の順番自体が通称の地名にもなっていること、講がないことなどを挙げ、村の開拓の歴史、年長者の方から聞き取りをしたことを中心にお話しされました。発表タイトルの「他者」たちとは、童仙房の入植の形態に由来しています。北海道などの近代開拓村は「母村」があり、集団で一か所から大勢で入植していることが多いのですが、童仙房の入植者は全国各地からいわば移民のような状態で入植してきており、さらに第二次入植の際は満州など「外地」からの入植者もいました。このため、多数の「他者」が童仙房を形成し、今日まで続く独自の「空間」と「時間」が生まれたということです。

報告会昼の部で報告する猿山氏
報告会昼の部で報告する猿山氏

猿山隆子氏(京都造形芸術大学・非常勤講師)は、「子育てから保育へ」というタイトルで童仙房地区の保育所設立の歴史について報告されました。野殿・童仙房地区に保育園が開園したのは今からたった38年前の1979年。児童数は9名でのスタートでした。現在でいう無認可保育園というかたちですが、設立に携わった保護者の方々は「保護者立」という言葉でその独自性をあらわしてきました。当時は園舎となる建物がなかったため、自力で建設したプレハブを園舎とし、幼稚園教諭免許を持った2名が先生となっての開園でした。子どもたちを送迎するバスなどもないため、先生たちが出勤の途中で児童の自宅に立ち寄り、園へ連れて行っていたそうです。当時の保護者からの証言をもとに園舎内の見取り図が示され、プレハブの園舎は片側に人が集中すると床が傾くような造りで、本当に手作りでの開園だったとの証言も紹介され、いかに「保護者立」であったかがうかがえました。翌年には新園舎竣工のため、公民館の一画を間借りして保育を継続し、1981年には園舎が完成。以降少子化が進んだことにより近隣の地区で保育園の閉園が相次ぎ、野殿童仙房保育園は小学校閉校と同時期の2006年に閉園しました。

保育園ができるまでは、母親たちは子どもを農作業の場に連れて行き、籠などに入れて畑のあぜに寝かせていたとのこと。保育園ができたことにより作業の効率も上がり、働き方に変化が出たという当時の保護者からの談話が紹介されました。保育園設立の1979年より前に子育てをされていたという出席者の女性からは、園が立ち上がった1979年より前にも保育園設立の話はあったけれども上手くいかなかったこと、また保育園を経験していない子どもは小学校に入っても友達との接し方がわからず、まずは友達と一緒に遊ぶことの練習からはじまったというエピソードをお話しくださいました。猿山氏は、今後この保育園設立当時に入所していた当時の児童を探して聞き取りをしていきたいと締めくくられました。

最後の発表は鎹純香氏(相愛大学・助手)。「食生活運動は〈改善〉だったのか」というタイトルで、童仙房地区の食文化と食生活運動がもたらした影響などを報告されました。戦後に政策として行われた生活改善普及事業の目的は、「農家の生活水準(経済、時間、労働、空間、物質)および生活環境を引き上げることであり、その方法は教育的手段によることとして続けられる(『農家生活白書』第256号、昭和41年7月15日)」とされ、農村の生活向上を志す地域の有志の方々によって実践されてきました。

食料が十分でなく、栄養不良に悩んでいた家庭の主婦たちは、各都道府県の保健所で開催された栄養教室に通い、食生活はもちろん、生活環境や健康維持の向上をめざしました。鎹氏がインタビューした方は、食生活改善推進員として活動していく中で、当時推奨されていた乳製品と肉の摂取や、栄養の偏りやたんぱく質と脂質の不足などが童仙房の食を取り巻く環境とそぐわないものであること、推奨レシピを数値通りに作って模倣することの「しんどさ」を感じていたといいます。現在はスーパーへのアクセスも容易となり、都市部と変わらない食物が手に入りますが、四季折々のキノコや山菜を楽しむ家庭が多く、野菜も自家栽培で多くの種類を収穫し、近隣同士で交換しながら生活しています。また、最近都市部でも人気が高いジビエ料理は昔から盛んに食されており、地域のものを食べる食生活のありかたが見直されています。

童仙房に暮らす自分たちが歴史を作っていく

報告会夜の部
報告会夜の部

発表内容は昼夜共通で、夜は男性を中心に子どもたちを含む約20人が参加し、櫻井孝男氏(童仙房地区区長)は、各時代のリーダーたちが童仙房をどうしていこうと考えていたのかを知りたい、またこれからそのようなリーダーをどう生み出していけるだろうかとおっしゃていました。他にもこの研究の成果を記録としてどう残してもらえるかに注目しているという意見もあがり、参加者それぞれの学びの場となりました。

参加者のお一人、内藤浩哉氏は、住む所を探して大阪からたまたま童仙房へ来て、一瞬で気に入ったといいます。受け入れてもらうまでの紆余曲折はあったようですが、元々外部からの人々が寄り集まってできた地区ですから、受け入れる体制の下地があったのかもしれません。彼の4人のお子さんたちはみんな夜の報告会に参加し、熱心に発表に聞き入っていたのも印象的で、昼の部、夜の部ともに出席していた息子さんに話を聞いたところ、祖父母宅を訪れて都会の集合住宅で過ごしたこともあるけれど、童仙房の方が自由に生活ができて良い、家庭内で引っ越しの話が持ち上がった時もここを離れたくないと猛反対したと話してくれました。

およそ50年ぶりの再会を楽しむ参加者
およそ50年ぶりの再会を楽しむ参加者

住民の皆さんは、誰かに教えられて郷土史を知るというだけではなく、聞き取り調査に協力しながら報告会のような場で経験や知見を伝えること、また誰かの話を聞くことにとても積極的でした。それは、大学の先生が来てくれたから彼らが何かをしてくれて地域が持ち直すかもしれないというどこか他人事のような意識でいることから、プロジェクトチームと協働することで、ここは自分たちの童仙房であり、自分たちが童仙房の歴史の一部を作っていくのだという自発的な思いをもつような、意識の変化があったからではないでしょうか。この意識の変容には、プロジェクトチームの働きかけが大きく影響したと思います。

今後童仙房の未来をどのように作り上げていくのか、まだ具体像は見えないのかもしれませんが、住民の皆さんによって新しく紡がれる童仙房の未来に注目していきたいです。

公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.25掲載
発行日:2017年10月23日

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