研究助成
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私のまなざし
著者 ◉ 池内朋子(東京都健康長寿医療センター研究所)
- [助成プログラム]
- 2021年度研究助成プログラム
- [助成題目]
- 社会的孤立高齢者が支援を拒む要因の解明─迷惑をかけてもいい社会をめざして
- [代表者]
- 池内朋子(東京都健康長寿医療センター研究所)
老いを受け入れて 幸福感を高める
私は老年学(gerontology)という学問領域において、高齢者が幸福感を維持しながら最期まで過ごすためにはどうすればよいかということを日々考え、研究を行っています。これは、私自身の今後の人生を考えることでもあり、いずれ自分が高齢になってできないことが増えたときのことを想像し、こんな地域や社会であってほしい、こんな支援があったらいいかも、ということを研究課題にしています。高齢者に関する研究は、すなわち自分自身のための研究でもあります。現在、日本の人口の約3割は65歳以上の高齢者ですので、私が研究対象としている高齢者はとても身近にいる方々です。このため、近所のスーパーで買い物や休憩をしている高齢者を観察し、そこから研究のヒントを得ることもあります。研究対象者(高齢者)がこれほど身近に大勢いるにもかかわらず、老年学という学問領域は日本ではまだ「珍しい」学問と思われます。その背景について考えてみます。
老年学は、高齢者の生活に関わるあらゆることをテーマとして取り扱います。たとえば、私は高齢者の心理や、人口の高齢化によって生じる社会課題などをおもな研究テーマとしていますが、日本で社会問題となっている高齢者の詐欺被害、高齢ドライバーの交通事故、認知症高齢者の行方不明、孤立死なども老年学の研究テーマです。このため、老年学は学際的(interdisciplinary)あるいは多専門的(multidisciplinary)な学問といわれており、それゆえその専門性が理解されがたく、老年学の普及をさまたげる一因となっているとも考えられています。そんななか、アメリカでは1967年にジェロントロジー(gerontology:老年学)の修士号、1989年には博士号が取得できるようになりました。現在、ジェロントロジー(もしくは関係する学問分野)の学士号を取得できる大学は全米に140校以上あります。
しかし、日本においては、老年学の修士号および博士号を取得できる大学は1校のみ、また学士号を取得できる大学は存在しません。日本は世界的にみても人口の高齢化がもっとも進んでいる国の一つですが、高齢者に関する課題を専門的に学ぶ学問領域の普及がもっとも遅れている国の一つでもあります。その理由として、老年学が若い人たちにとって魅力的ではないことや、老年学の専門職として活躍する場が少ないことが考えられます。
毎年歳をとることを楽しみにしている人は少ないと思います。また、中年(40歳頃)を過ぎてくると、体力や記憶力が低下してきたと感じている人もいるかもしれません。老いはさまざまな機能が衰えてくることとも関係しますが、この老化現象に対抗するために(すなわち、若さを保つために)さまざまな取り組みをされている人も多いかと思います。社会においても、若いことは老いていることよりも良いと考えられる傾向があり、アンチエイジングや加齢臭対策などは多くの人々に受け入れられています。このように老化には否定的なイメージがあり、若さを求める社会において、老いた人々に関する学問としての老年学の魅力を高めることは、老年学教育が比較的発展してきたアメリカやヨーロッパにおいても課題となっています。
私自身は、アメリカの大学に通っていた頃に老年学に出会い、それ以来、高齢者に関する研究をしてきました。老年学領域の研究には老化予防(アンチエイジング)も含まれますが、私は老化を予防するよりも老いた状態を受け入れることに興味を持ってきました。もちろん、健康管理をし、できるだけ長く良好な心身状態を保つことは大切ですが、現代の医療や科学技術においても老化を完全に防ぐことはできません。そこで、「彼を知り己を知れば百戦殆ふからず」という孫子のことばにあるように、老いを避けるのではなく、むしろそれを理解して受け入れることにより、あるがままの自分をもっと好きになれるのではないかと考えます。
老年学の研究成果から歳をとることの「良さ」を一つ挙げますと、中年期以降は加齢とともに幸福感が高まるということです(“happiness curve”と呼ばれる現象)。高齢期の幸福感の維持・向上の秘訣は、自身の老いに適応することといわれます。すなわち、老いた自分を否定するのではなく、肯定的に捉えて人生を楽しむことです。たとえば、白髪が増えてきたら白髪染めで隠すのではなく、違う色に変えてみて変化を楽しむのもよいと思います。
私は現在、トヨタ財団から助成を受け、高齢者の「周りに迷惑をかけたくない」思いについて研究を行っています。日本で生活していると、「迷惑」という場面やことばを見たり聞いたりせずに一日を過ごすことがないほど、「迷惑」は非常に身近な存在として感じます。また、高齢者と接していても、「迷惑」ということばが頻繁に登場します。一昨年98歳で亡くなった私の祖母も、外出の際にシルバーカー(歩行補助器具)を使うようになってからは、周りに迷惑をかけることを心配し、一人でバスなどの公共交通機関を利用することを避けるようになりました。
私は高齢者のこのような心理に興味を持ち、周りに迷惑をかけることを気にしながら生活することは、高齢者の幸福感に良い影響をもたらさないのではという仮説を立てました。しかし、研究を進めていくうちに、迷惑をかけたくない思いは周りの人(とくに大切な家族やお世話になっている人々)への配慮であり、このような思いは周りの人との良好な関係を保ちたいという願望から生じていることが分かってきました。
大切な人たちとの良好な関係は、幸福感の維持や向上に役立つと考えられます。また、歳をとるにつれてできないことが増えてきても、大切な人たちに迷惑をかけないように生きることは、高齢者の自尊心の維持にも寄与しているのかもしれません。
公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.44掲載(加筆web版)
発行日:2024年1月25日