研究助成
contribution
寄稿
著者◉ 三島美佐子(九州大学総合研究博物館)
- [助成プログラム]
- 2017年度 研究助成プログラム
- [助成題目]
- 活用文化財としての歴史的木製什器の在野保存――新たな文化財概念の確立とその保存活用方策に関する実践的研究――
- [代表者]
- 三島美佐子(九州大学総合研究博物館)
歴史的木製什器との邂逅〜「モノ」がつなぐ場とひと〜
はじめに
今回の執筆依頼をいただいたさい、本研究での取り組みが「人と家具が日常生活の中で自然と交流する「場づくり」にも通じるものだったのでは?」というご指摘を、財団の加藤さんからいただいた。これまでの筆者の「場づくり」への理解はごくごく単純で、物理的な「空間づくり」と同義だったので、「空間づくり」をしていても「場づくり」をしていたという意識はあまりなかった。しかし加藤さんのご指摘から、そもそも「場づくり」とはなんぞや? と思い、さらりとウェブ検索してみたところ、さまざまに解釈されたり深掘りされたりした記事がたくさん上がってきた。それをみていると、確かに筆者がやっていたことは、「場」づくりの一種なのかもしれない、と気がついた。
ただこれまで筆者は「什器(家具)」という「モノ」を扱っており、モノや空間としての「場」のあり方の方に意識を向けてきている。それはまさに加藤さんがご指摘くださったような「人と家具が日常生活の中で自然と交流する」場である。そのせいだろう、あえて「場づくり」を意図せずとも、そういう「モノ」をきっかけとしてゆるやかに人が集まりなんらかの「場」になるような、自然発生的なものであればそれでよい、と思っている自分に気づく。
「場づくり」を目指してはいないけれども、それに少し通じるかもしれない、本助成研究の取り組みを以下に紹介していこう。
歴史的什器研究のはじまり
私たちにとって一番身近な「場」は家内や室で、その空間づくりに欠かせないモノは「家具」だろう。筆者の職場でもある「大学」には、家庭で見慣れているいわゆる家具の他にも、大小の作業台や器具や展示台などの備品がさまざまにある。本助成研究ではそれらをひっくるめて「什器(じゅうき)」と呼んでいる。
筆者が現在務める九州大学(以下、九大)は、幸いこれまで戦禍や天災を免れたこともあり、大正元年(1911年)の創立以来導入されてきた戦前の木製什器が、戦後も普通に使われていた。ところが2005年からキャンパス移転が始まると、引越しを契機にそれら什器の大量更新が始まる。歴史的な什器(以下、歴什)がむげに廃棄されていくのを大学博物館在職の研究者として看過できずに救済・収集しはじめたのが、この助成研究に至るきっかけである。
大学の歴史的什器の現在
現在九大の歴史的什器コレクションは、1900年代〜1970年代までの木製・鉄製・合成樹脂製などを含め2000点ぐらいになっている。そのうちの木製什器に限って言えば、最終移転までに処分された全木製什器に対し救済できたものは1%にも到らないだろう(正確に算定できたわけではないため感覚的なものである)。
そもそも日本の大学には、戦前の木製什器がどれくらい残っているのだろうか? 本助成研究の主軸ではないが一部でもあるその問いには、まだ十分に答えられるだけのデータを集め切れていない。さすがに日本で最も古い国立大学である東京大学や京都大学には、まだかなり残っているようだ。東京丸の内にある東京大学総合研究博物館・インターメディアテクは、やはり廃棄されかけていた学内の美麗な戦前木製什器を救済して集め、それらをふんだんに展示で用いていることで有名だ。そのほか各地の大学博物館の研究仲間からの情報によれば、各大学とも移転や建て替えの過程で戦前什器は現代家具に更新されてきており、多くはないが現存しているようだ。
現代日本の古いモノに関する課題
この大学における歴什の様相は、現代日本の古いモノに関する課題の縮図といえる。日本では、開国後の西洋の文化・習慣の急激な流入が「新しいモノ」=「よりよいモノ」という観念の形成を促したのだろう。さらに戦後の高度経済成長を経て使い捨てに慣らされてしまった現代日本において、「古さ」は「モノを捨てる理由」であるようにさえ見える。そんななかで、身近で古い木製什器にも価値があるという認識を持つことは、一般的にはなりにくかったであろう。
ちなみに木製家具の研究は、実は国外では結構盛んで、特にイギリスでは顕著だ。王室や貴族が使用していた家具が多数継承され、家具デザインの潮流は時の王朝の名前を冠して呼ばれる。世界有数の美術・工芸・デザインの博物館として家具も多数扱っているVictoria & Albert Museumの展示では、木製家具の数百年の変遷を現物で俯瞰できる。アンティークや中古市場も活発だし、古家具を組み合わせて新しい家具をDIYするような文化も根付いている。
そんなふうに木製家具の地位が確立しているイギリスでさえ、80年前ぐらいの“歴史が浅い”家具は100年越えのアンティークより下に見られるらしい。2019年に本助成研究で実施したイギリス現地調査で、ある小さなミュージアムの解説ボランティア学生が、そんな風に言っていた(「でも私は結構そういうのも好きだけど」とも言っていた)。洋家具文化の歴史自体が浅い日本では、言わずもがなであろう。
古民家や近代建築が文化財化されたりリノベーションされたりして再利用される一方で、建物の中で同じ時を経たはずの家具類が一掃されてしまう傾向にあるのも残念だ。歴史的・文化的価値の検討や評価が一切なされないまま什器が廃棄されたりすることへの問題提起は、本研究の一つの目的だった。
古いモノへのまなざしの変化
しかしここのところ、建物のリノベーションやレトロ復刻が流行していることとあわせ、古いモノへのまなざしは明らかに変化してきている。
本助成研究は、元々2015〜2016年にかけて共同研究体制や構想を整え、2017年度申請で採択され、2018年度からスタートしたものである。古民家や近代建築同様、活用前提で保存・継承されるような文化財の考え方を「活用文化財」として新たに提唱し、そこに歴什を位置付けることを目論んだ。そもそも文化財法でいう「文化財」に含まれていないが価値ある文化財的なモノは、「家具」のみならず現代日本にたくさんあり、近年は「文化資源」という概念で捉えられるようになってきていた。
ちょうど本研究と前後して、「文化財保護法」の改正が検討され、いまや「文化財」を可能な限り積極的に活用することや、評価が定まらない「文化財未満」の有形・無形物(すなわちそれは文化資源のことだと筆者は理解している)も保全・活用を推奨するよう明文化されることとなった。かくして本研究で設定していた課題のひとつ──歴史的・文化的価値の検討や評価がまだ定まらない「モノ」の扱いをなんとかしよう、という部分については、期せずして自然消滅してしまったといえる。
「在野保存」という新たな保存活用方策
一方で、具体的にどのように保存しつつ活用すれば次世代に継承できるか?という課題が残っている。そこで本助成研究で新たな方策として実践・検証しているのが「在野保存」だ。手入れしながら大切に使ってくれる民間や公共に歴什を貸し出し、世代交代のときには正式に次世代に引き継ぐか返却してもらう。これはすなわち、家具としての本来機能を発揮させつつ次世代に継承するため、博物館の保管庫から「資料」を解き放つことでもある。
さらに問題は、どう解き放つか、ということになる。2018年に開催したキックオフ・シンポジウムでも、そこは議論になった。改変を許すか許さないのか、許すならどのようなどの程度を許すのか? 実は未だに結論は出ていない。
少なくとも、この2〜3年に実戦研究の一環として行った「在野保存」では、壊れの修繕、再塗装などはよいとし、不可逆的な大幅な改変は要相談とした。実際はこの期間の在野保存貸出先は、みな「使い込まれた風合い」を愛する人たちばかりだったので、不可逆的な塗装もあったがむしろ什器の良さを引き出すものになった。
「在野保存」が「植樹」であるという「価値の変換」
本助成研究の共同研究者である吉田による試算では、歴什の両袖教授机1台が、直径60cm樹高25mの樹木の材積に相当するという(吉田2017)。ちなみに九大の歴什でよく使われているナラでは、胸高直径60cmに育つのに60〜150年ほどかかるらしい(ただしその年限で25mまで成長するというわけではない)。さらに戦前什器の無垢材は、板厚4〜5cmとか板幅50cm前後はザラで、そんな大きな一枚板はやはり樹齢の高いものからしか取れない。だから吉田は、歴什の修繕・再利用を「植樹」とみなし、「伊都キャンパスに歴什で森を作るんだ」と言いながらせっせと新キャンパスへの「植樹」をすすめている。
このような吉田の考え方は一種の「価値の変換」なのではないかと感じている。そしてこの「価値を変換する」という考え方自体が“新たな価値の創造”にあたるかもしれない。
「植樹」された什器を、大きな森の一画だと思ってみよう。森の一画が日々の生活空間にあるとすれば、それはなんと素敵なことだろう。「在野保存」で歴什がかたわらにあるということはそういうことでもあり、それは人々の日々の暮らしや生活における心持ちを、変えるかもしれない。
うきは市での試み──「うきはモノと文化の実験場」
本助成研究をすすめていくうちに、そのような「歴什がかたわらにあること」が、人々や空間にどのような影響を与えているのか、明らかにしたくなってきた。そこで計画変更して取り組んだのが、福岡県うきは市での実践と参与観察だ。ただ、最初から狙ってうきは市で取り組んだというよりは、歴什というモノがきっかけで展開していったものである。以下に少し紹介していこう。
先に述べた2018年のキャンパス移転のさい、大量に収集した歴什の保管場所が見つからず、大変困っていた。その時「浮羽まるごと博物館協議会」で「棚田学び隊」の活動をしていた菊池氏にご紹介いただき、うきは市役所や市内事業所のご協力を得られることになり、収集した歴什の7割ほどを廃校校舎と倉庫に保管させてもらえることになった。後者の倉庫は元々家具工場で、非常によい雰囲気だ。保管家具を雰囲気よく配置し博物館ワークショップや近隣の皆さんの文化活動の場することで、歴什空間が人々に与える影響を検証することもできるし、なによりも窮地を救ってくれたうきは市に恩返しできるのではないかと考えた。
ただ単に倉庫整備してそこでいきなり活動するとか、はいどうぞと提供するのでは、この土地に対する文脈がなさすぎる。そこで町のみなさんと一緒にDIYで整備することで、手を動かすみなさんが望む形にも近づけられるし、場への愛着も生まれるだろうと考えた。そこで整備作業自体をDIYのワークショップとして実施することとした。つまり、ゆるやかに文脈を作っていこうというわけである。
この呼び掛けに、うきは市の地元の方々が参加してくれるようになり、九大の建築学科の有志の学生さんも協力してくれた。うきは市自体、自主活動が盛んな地域ということもあり、「おもしろ好き」な方々が参加してくれた。例えば、新店舗の壁塗りを自分でしたいのでその練習にちょうどよかったという方、こういう事が大好きだからと毎回参加してくださるような方、歴什が見たくてDIYに参加した! という方などもいらっしゃった。
1年かけての整備が完了し、いざ本格活動をはじめよう! というところでコロナ禍となってしまい、残念ながら実際にこの「場」を活用したり、そこで何らかの実践活動をとおした検証には至っていない。今後、地元のみなさんが上手に活用していってくれることを期待している。
ヨソモノがする「場づくり」のあり方への気づき
このうきは市での実践や地元の方々との交流からは、多くの学びや気づきをいただいた。これを契機に、日本の多くの地方に共通した遊休施設の活用や街の活性化の課題も身近に感じるようになり、他の地域の実戦や先行事例なども少し眺めるようにもなった。
先行事例と対比してみると、筆者の試みは、ヨソモノによる一種の「場づくり」であったといえる。ここで、町に川が流れているとしてみよう。ここでいう“川”は、町の「文脈」だ。もし川のとある場所に船を到らせたいなら、離れた川岸から川の流れにのせてゆるやかにそこに向かわせる方が、景色を楽しめるし途中で魚つりもできるかもしれない。行き交うほかの船と出会ったり挨拶したりできるかもしれない。ヨソモノである筆者が目指していたのはそんなイメージだったといえる(いまや川岸から送り出した小さな笹舟は、コロナ禍といういきなり来た台風でどこかに行ってしまった感もあるが・・・)。
このようなゆるやかなあり方の対局は、行政主導の大きなプロジェクトだろう。目を見張るような成果が得られている事例が各地である。しかし必ずしもうまく機能しないこともあるようだ。大きなプロジェクトがどーんと投入されたのはいいが、その地元に文脈のない団体やコンサルによるもので、それはまるで大きな船が、町の川のど真ん中にいきなりドッボーン!と投入され、水しぶきが盛大にバッシャーンと上がったり、結果として川の流れが大きく変わってしまったり、波立ちがいつまでも続いたり、場合により、船が大きすぎて川底について動かなくなったりするかのようだ。まあでもいつか、錆び付いた船の周りにも生き物が住み着き新たな生態系が形成されることもあるだろう。
とはいえ筆者のうきは市での試みはやはり「場」づくりではあっても、「場づくり」という意識でなされていなかったと思う。それは、近隣小中高校や自治体との直接的な連携構築まで十分に考えていなかったことだ。整備した場を長期的に町に受け入れてもらい活用してもらうためには、地元の子どもたちや長く自治を支えてきている60代以上の方々との関係づくりが重要である。今回は走り始めてから近隣高校に参加勧誘に行ったが、学校を経由して生徒に働きかけるには、時間をかけて学校と相互の信頼関係を構築してからでないと難しいということがわかった。恐らくまちづくりや場づくりに携わる方々にとっては当たり前のことだったであろうけれども、筆者はわかっていなかった。うきは市の実践をとおして得たことは、今後の大学博物館活動の中に生かしていくことにしている。
「在野保存」事例から──北九州市「バイオフィリア」
ここで少し話題をかえて、歴什が「在野保存」されている「場」での試みを紹介しておこう。自然史界隈ではよく知られているNPO法人「北九州・魚部」が、空店舗をDIYでリノベして2019年に立ち上げた魚部カフェ「バイオフィリア」だ。魚類をはじめとする生き物にフォーカスしたユニークなカフェで、開店早々コロナ禍で苦しい経営を強いられているものの、興味をそそるサイエンス・カフェなどを継続的に実施しており、今後の展開が期待される“科学文化拠点”だ。
店長の工藤雄太氏から在野保存貸出の依頼があった当初、「店内のイメージはまったくなく貸してもらえればなんでもOKという気持ち」だったらしい。そこで筆者は、戦後品で白塗り・合板製の医学部由来の棚を提案した。理由は、バイオフィリアが予定しているような天井高のある広い空間にうってつけの棚であったこと、また、魚部が持つ明るさと理科室的なイメージにあっていると思ったからだ。あとは要望にそった大きな戦前什器の卓などを選び、さらに、戦前什器に比べると作りが簡素でおそらく戦後製造と思われるラワン製作業台なども追加した。
これまでの認識であれば、戦後品よりも戦前品のほうが断然「格上」だ。作り・質感・重厚感(実際、重い)ともに明らかである。工藤店長との打ち合わせ当初、筆者の中にも「この機会を逃したら、この比較的新しい什器には、なかなか行き先がみつからないかもしれない」とか「これなら貸してもいいかな」とかいう思いがちょっぴりでもあったことは、否定しない。しかし工藤店長はそんなことにはまったくこだわっておらず、逆にそのこだわりのなさは、モニターとしての貸し出し先にある程度のクオリティを要求していた筆者をやや不安にさせもした。そこで他の在野保存先のいくつかを手掛けていた牛島内装さんを紹介し、相談にのってもらうことも勧めた。親身にアドバイスしてくれる大工の牛島さんの助けもあり、魚部のみなさん自ら戦前・戦後の什器をあわせてイメージをふくらませ、部員とともにDIYでの空間づくりに取り組んで行った。
「バイオフィリア」が気づかせてくれた「新たな価値」
そもそもラワン材は、昭和の安材の代名詞であった。だからその時代にラワン材を見慣れている筆者の世代は、どうしてもラワン製品を“安っぽいモノ”として見てしまう。在野保存のために保管庫を案内すると、だいたい50代以降の人は、什器にラワン材が使われているとわかると評価を下げるかそもそも選ばない。ところがこの1〜2年、徐々に20〜30代の若い世代を案内する機会が増えいてくと同時に、ラワン材製や戦後の合板製の什器へのポジティブな反応が増えてきていた。世代によるこの反応の違いは、何故なのだろうか。
実はラワン材は、長年にわたり乱獲されてきた原料樹木が絶滅に瀕してしまい、日本ではもはや入手困難でありさえする。それはつまり、かつて“安っぽい”と見られがちだったラワン材製品が、いまや古家具でしかお目にかかれないということだ。そうとなれば、固定観念や先入観で曇っていない清らかな目を持つ若い人たちにとって、目の前のラワン材製品は純然たるプロダクトとして戦前什器などと同列に見えており、現代的な嗜好に基づき、質感のある戦前什器よりも軽快なラワン材製品がより魅力的に感じられるのかもしれない。
さて、魚部の皆さんが手塩にかけて作ったバイオフィリアのカフェ空間で、水槽や商品が置かれたラワン製什器は、いい塩梅に映えつつしっくりと馴染むことになった。お披露目会の当日も、「この台かわいい」という声が聞こえてきた。最終的に、筆者の中のラワン製什器に対する「格下」とか「安っぽい」という認識も、完全払拭されてしまった。このバイオフィリアでの在野保存は、筆者にラワン材製品の「新たな価値」を気づかせてくれたのである。
同時に、あるモノを「モノ」として見ることと、文脈や既存の価値で「判断」することの相違も、自分の中で明確になった。本助成研究における「在野保存」の実践に基づく検証において、個人への貸し出しに難しさを感じていた。それは、とある什器をモノとして見ていた人が、その人の中にない文脈や既存の価値に基づき「判断」を下したことで、その人がそのモノに対して直接感じていたことやそのモノへの評価を覆してしまうという場面が多々あったためだった。
少なくともラワン材什器については、バイオフィリアのような「人と家具が日常生活の中で自然と交流する」場をとおして、既存の文脈や価値にとらわれずに「新たな価値」を人々に投げかけられることになったわけである。このことは、文脈や価値を見出し新たに意味づけることで歴什の次世代につなげようとすることと矛盾するようにも見える。文脈や価値にとらわれること、それにとらわれない先にまた生まれる新たな文脈と価値。それを時代とともに問い直せるのも、現物があってこそ可能であると、筆者は考えている。
モノから立ち上げる「場」──伊都キャンパスフジイギャラリーでの試み
最後に、最新の取り組みについても紹介しておこう。ちょうど昨年から、足元の九大伊都キャンパスに新たなギャラリーが設置された。その当面の運用を九大博物館が担うことになったため、その空間づくりで歴什を用いて2つの試みをした。ひとつは、1960年代導入の現代デザイン家具に多数の重複があるため、それをメインにすえ、そこから空間イメージを立ち上げることだ。戦後の現代家具も歴什として位置づけ活用することは、本助成研究の中で取り組んだ寿商店(現・株式会社コトブキシーティング)の調査の過程で着想したものだった。もうひとつは、ここに「植樹」する戦前木製歴什については、この空間に持たせたい目的や雰囲気にあわせて、思い切って改変したことだ。
博物館で仕事をしている筆者は、歴史資料でもある歴什に切った貼ったの大幅な改変を加えることには、実は大きな躊躇や不安があった。本助成研究での計測調査により、重複品とみなされるものでも、微細には全て固有であることが明らかになってからは、なおさらだった。すでに述べたとおり、2018年5月に開催したキックオフ・シンポジウム「Furniture for Future 使いながら守る・つなげるー新たな仕組みとしかけの提案に向けて」でも、歴什の在野保存における改変については、さまざまな意見が出た。今でもまったく迷いがないとは決して言えない。しかし今後在野保存をすすめ、さらなる歴什の新たな可能性を探り活用を促進しようとするならば、改変・改造に対する可能性も探る必要があり、誰よりもまずは筆者が自ら「手を下す」必要があったのだ。
かくして改造された歴什と改変された現代家具とで構成されたフジイギャラリーの空間は、まだ整備の途上であるものの、人の心を惹きつけることには成功しているようだ。だが、本助成研究のとりまとめとなるクロージング・シンポジウムでは、どのような意見が出されるか。試練でもあり、楽しみでもある。
おわりに
以上、いくらかの寄り道をしながら、本助成研究とそこから派生した取り組みなどを紹介してきた。「場づくり」がテーマのはずが、最後は結局「場」づくりや空間づくりに回帰してしまった。
本研究はまだ途上にあり、年々新たな問いが生じてくる。本助成研究の成果は論文発表のみならず、問いへの解や仮説が実際の空間や場として体現されることが特色である。本稿を読まれたみなさんには、上記で紹介した、北九州・魚部のバイオフィリアや来年(2022年)5月にはグランドオープンできるであろう伊都キャンパスのフジイギャラリーをはじめ、福岡〜熊本各所の在野保存先の店舗に足を運んで、それらを体感してみていただきたい。そして、そこで感じたことや生じた思いをぜひお聞かせいただければ幸いである。
公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.37掲載(加筆web版)
発行日:2021年10月28日