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国内助成プログラム

内山節氏×萩原なつ子氏対談「地域に根ざしたこれからの働き方―関係の中にある仕事」

9月28日(日)に開催された助成プロジェクト報告会「関係性の中で育まれるコミュニティ―地域に開かれた仕事づくりを通じて―」の第二部で、内山節氏(哲学者・立教大学大学院教授)と萩原なつ子氏(2014 年度国内助成プログラム選考委員長・日本NPOセンター副代表理事)の対談が開催されました。対談では、本年度の国内助成プログラムの趣旨にもつながる哲学が語られました。1時間半に及ぶ対談のごく一部ですがここで紹介させていただきます。ぜひご一読ください。

内山節氏(左)と萩原なつ子氏(右)

萩原:今日は、対談ということですが、恐らく内山節(ぶし)をお聞きになりたい方も多いかと思いますので、私はどちらかというと進行役ということですすめていきたいと思っております。改めまして、萩原なつ子です。どうぞ宜しくお願い致します。
はじめに、自己紹介も含めて事例報告の感想をお願いします。それから本題にはいっていきたいと思います。それでは内山さんお願いします。


内山:内山です。ぼくは、群馬県の上野村という村と東京と両方に住んでいますが、気分的には上野村の村民です。もう上野村に行って40年過ぎていますので、すっかりそういう気分で暮らしているという人間です。

【地域を守る働き方、経済のあり方】
内山:今日の報告を聞いていてこれからの社会形成を考えていくと、どんなふうに人間たちが結び合って生きていくかということと共に、その結び合いの中でどのように自分たちの経済活動をつくっていくのかが、とても重要な時期にきているのだということを強く感じました。

なぜ経済活動かというと、今の通常の経済つまり「市場経済」は、明らかに地域社会を壊してしまう要因になるし、場合によっては家族の在り方まで解体してしまう。それに対して、どのような働き方、どういう経済をつくっていくと、地域社会が守られ、これからも私たちが地域で生きていけるかということを考えなくてはいけない時期にきているのだと思います。

実は経済っていうのは、必ずしもお金を使ったり、市場を介在させたりするものだけが経済ではない。ただ、今の時代は、なぜかそういう経済だけが経済ということになっているおかしな時代です。

地域社会と調和できる新しい経済を作っていくときには、ある程度の収入を得ていく働き方、経費さえ出ればいいよっていう働き方、時には、むしろ自分のポケットからお金が出ていくけどとても楽しいという働き方があってもいい。多様な働き方、多様な収入の得方を保障しながら展開していけるような経済の形は、どういうものかっていうことが大きな課題になってきている時代だと思います。

萩原:もう最初から内山節(ぶし)がさく裂でしたね。ありがとうございました。

それでは私の自己紹介です。本年度からトヨタ財団国内助成プログラムの選考委員長を務めることとなりました。私とトヨタ財団とのつながりは29年前に遡ります。「市民研究コンクール 身近な環境をみつめよう」(1979年-1997年)というプログラムがありました。

このプログラムの助成対象となっていた団体に大学院生として1985年ごろから関わり、1990年からはトヨタ財団アソシエイトプログラムオフィサーという立場でかかわっていました。

このプログラムは、市民による地域の身近な環境を研究する活動を支援するという画期的なものでした。なぜ1970年代にそんなプログラムができたかというと、高度経済成長期に大なり小なりの開発によって地域の自然環境、生活環境などが破壊されことに対し、自分たちの暮しそのものを住民自身が調査、研究という手法を通して見つめ直す必要があったからだと思います。

「身近な環境を見つめよう」ということで地域を見直していくと、今まで見えていなかった課題や地域の価値が発見されました。課題の解決のために、助成対象チームが試行錯誤を繰り返しながら活動を展開していました。今日のご報告を聞いていて、当時の助成チームが開発した手法がかなり活かされているのではないかなと思いました。

1970年代から日本社会で問われてきたことが今なお改めて見つめなおさないといけない時代なのだと思います。内山先生は、これからの日本社会についてどんなふうにお考えですか。


【日本を田舎にする】
内山:これから必要なことは、ものすごく乱暴に言うと「日本中を田舎にする」っていうことだと思うんです。都市が戦後肥大化して、都市へといろんなものが集中した。そろそろその結果が見えてきて、憧れていた都市が必ずしもそんなに良い社会ではなかったということに気づきはじめたわけです。お金を持っていれば、毎日それなりに楽しめるわけですが、一方で非常に厳しい社会が都市にはあるんですね。たとえば、孤立した高齢者の存在など、いろんな形で表れています。

実は、ぼくも萩原さんも立教大学の同じ研究科ですけど、その科の修士論文で、東京の場合、亡くなってだれからもお葬式をあげてもらえないで、あの世に行った人というのが10%いる。つまり10人に1人は誰もお葬式をあげてくれないまま、あの世に行っている。そういうレポートがありました。これなんかも都市がその結末を見せている一つの象徴的事例といってもいいでしょう。

そういう中で、田舎の社会が持っていた「回し合っていく世界」が必要になってきていると思います。例えば上野村にはタクシー会社って一社もない。「ぼくが乗せてあげるよ」っていうお互い様の関係があるからタクシーがなくても大丈夫なわけです。市場以外にそうやって補うものがたくさん存在する。そういう田舎がもっている底力をこれから日本社会に全体化していくことが大事です。さらにいえば田舎は、自然と人間の関係についてある種の調和点を作ってきたわけで、それもまたどういうふうに社会化していくかっていうことを考えないといけません。それを大きな言葉で要約してしまえば「日本を田舎にする」ということになります。だから東京も東京なりの田舎にする。これは、これからの社会づくりの一つの方向性なんだろうなというふうに思います。

萩原:都市を田舎にしていくというお話でしたが、今年の5月に日本創生会議が発表した消滅可能性都市の中で、23区の中で1つだけ選ばれてしまったのが豊島区です。それで区長が危機意識を持って、20代30代の女性が、住み続けられる暮らしやすい地域にするにはどうしたらよいかと、「としまF1会議」というものをスタートさせました。

Fは、Female(女性)、1は、マーケティング用語で20代30代をさします。私は、そのチームの総監督を務めています。まず、7月19日にキックオフミーティング「としま100人女子会」を開きました。1000を超える意見が出てきました。その中で、都市というものがもつ便利さもあるけれど家賃が高かったり、物価が高かったり、安心して遊ばせる公園がないなど子育てするにはなかなか難しい状況にあることが見えてきました。だけど、そこに暮らさざるをえない人たちもいる。その時に他の地域、内山さんの言葉を借りれば田舎とマッチングして都市住民が行ったり来たりするような交流することができたら、面白いんじゃないかという意見がありました。こういうのももしかしたら、都市を田舎にしていく一つの方法としてあるんじゃないかなというふうに思います。

【外と内のつながり】
内山:上野村で暮らすようになって、もう少し上野村で暮らす時間を長く持ちたいなと思うことがあったんですが、村の人が「いや、別に今のままでいいんだよ、東京とかいろんなところに行って得てきたものを村に持ってきてくれる方がずっとありがたい。それは村の人にはできないから。農業なんか、あなたがいくら頑張っても我々には追い付かない」と。それよりも、そうやって行ったり来たりしているがゆえに手に入るものを村に持ってくるっていう、そっちの方があなたの役割だよって言われました。

地域の経済は、地元に還元して回していく部分と、それから外から買ったり、外に売ったりという部分と両方が必要です。たとえば今うちの村では、木質ペレットを燃料にして、これからは発電もしようということがはじまっています。そういう中で森林がらみで働いている人が、人口1400弱の村で、150人位います。村の中ではすごい雇用場所になっているわけです。これは村の中でぐるぐる回る経済ですね。それを強化していくのも重要ですが、同時にやはり外から買わなければいけないものっていうのも当然ある。そうすると外に出さなきゃいけない、もしくは、観光という形で外から来てもらうとか。そういう時、やっぱり外の人たちの知恵も必要になってくるわけです。

萩原:外の人たちの知恵という点では、他の地域を見るというのも大事です。ある地域で何か成功するといろんなところに飛び火していくじゃないですか。成功した地域やプロジェクトの視察をすること、私は、これはすごく重要だと思うんですよね。そして面白いなと思ったら積極的に取り入れてみる。最近これをTTPっていうらしいです。TPPじゃないですよ。TTPは、「徹底的にパクる」の略(笑)。ただ、パクったら、パクったまんまじゃ芸がないのです。それぞれの地域で独自の味付けをして、ある種の「アート」にまで高めることが必要。それをパクリックアートというんです。

【地域の「家業」】
内山:日本の社会って、長らく家業を中心にして生きてきた。それが、特に戦後になって家業的世界がかなり縮小していく。先ほど「日本を田舎にする」と言ったのと同じくらい乱暴に言ってしまうと、ぼくは「日本社会はもういっぺん家業に戻るべき」と思っているんです。ただ、家業といった場合、家単位だとどうしても跡取りがいない家が出てきますから、続かないことがある。だから地域として家業化する。その場合重要なのは、どうやれば継続していけるのかを検討する必要があるということです。お互いに家業の作り方を学びあっていけばいいわけですが、学びあっても、自分の地域でやるのは、自分とこの資源を活用するわけです。真似したはずがオリジナルになっているということだろうなと思います。

萩原:その場合、先ほどのお話にもありましたが、家業で収益を上げて生活する人もいれば、ボランティア的な人もいる。本業を持ちながら地域の活動をしている人もいる。多様でいいわけですね。地元学を提唱された宮城県の結城登美雄さんがずいぶん前から「新しい兼業の在り方」がこれからは大切で、若い人たちにいわゆる稼ぎ仕事をしながら、週末に一次産業に従事するといったオルタナティブの働き方を勧めていますね。それぞれの地域で何を地域の家業にしていくか、地域の未来についてはどのような視点で考えていけばよいでしょうか。


【100年先を見つめる】
内山:15年くらい前なんですけど、当時群馬県上野村の「新総合計画」を作ったことがあるんです。その時、各県で作っている「新総合計画」を見たんですが、みんな同じ。県名を間違えて読んでも大丈夫(笑)。たとえば「弱者に優しい県づくり」とか、「自然と共生する県づくり」とかそういうのが並んでいる。それから、2000年頃でしたから、高速通信網を整備するとか、先端産業を育成するとか……。なんでそうなるのかなと考えると5年計画というのがだめなんですね。5年先というと目の前の課題がはっきりしちゃって、そればかりが気になってくる。そうすると、高速道路が欲しいとか、新幹線が欲しいとか、欲しいものが列挙されることになる。

その時に、メンバーで地域で話し合って、5年計画から100年計画に切り替えたんです。100年に切り替えた瞬間に、「つくる計画をしてもしょうがない」っていう話になったんです。100年後は、どういう社会かわからない。そうすると高速道路を作りましょうって言っても、100年後に高速道路が必要なのかどうかってわかんないわけです。あるいはインターネットなんか100年後は使ってないでしょと。そうすると、つくる計画から残す計画にかわっていく。例えば、100年後にどんな社会になっていても、群馬県からすべての自然が破壊されているってことになると、絶対暮らしにくいですよね。だから自然だけはしっかり残すと。自然を残すだけじゃなくて、自然と人間の関係を残すと。あとはどんな社会になったとしても、人間同士がまったくつながりがないっていうのは、これは悲惨な状況だと。だから、これはやっぱりしっかりと残さなきゃいけない。あと、手仕事を残すというのもありました。

その中で産業政策はというと、一次産業は残すということだったんです。つまりどんな時代が来たとしても、農業が崩壊しているのは良いはずがないから、どうやって一次産業を残していくかっていうことを真剣に検討するということになりました。100年後となると、今、先端産業とされているものも、もう博物館にしかない可能性があるんです。だから、それはもうなるようになりますと。

それで、「これまでは経済が発展すれば発展するほど、地域が破壊され、環境が破壊され、時には家庭生活が破壊された。それに対してどういう働き方をしたら、地域がよりしっかりし、家族的な暮らしが良くなり、環境的にも自然と人間が調和できるか、それが群馬県の産業政策である」ということを書いたのです。経済界から大変評判が悪かったんですけども。もちろん短期的に解決しなくてはいけないこともあるので、決してそういう目の前の課題を無視していいってことじゃないんですが、やっぱりもう一方で大きく物を考えていくときには、100年後の人たちに何を残すかという視点が必要だと思うんです。

実は100年後ってそんな遠くなくて、今生まれているお子さんとかお孫さんが、晩年を迎える頃って想定すればいいわけです。


【新しい世代の動きを応援する】   
萩原:かなりの長期の視点は大事ですね。今は、地域づくりってある特定の年代の人たちが中心になっていることが多いかもしれないですが、100年先といった長期的な視点で見ると、小さなお子様から、小中高生、大学生、女性、男性、高齢者、障がい者の方、あるいは外国人の方、いろんな方たちが地域づくりに関わっていけるようにするべきと思います。

内山:私自身、なんだかんだいって高度成長期の世代の人間です。高度成長と共に、いろんなことができるようになっていった世代が無意識のうちにもっている限界っていうのがあるんです。たぶん、この方向の延長線上に、あんまりよい未来は描けないなっていうふうに思います。ぼくらは何もしないって言っているわけではありませんが、最近は、バブルも関係ない、高度成長も関係ない、新しい何かを手にせざるを得ない人たちが動き始めているから、むしろ本当にそれを応援したい。そういう人たちが活動できる環境をこれから一生懸命作りたいなって思います。

<質疑応答>
対談終了後、会場からの質問に内山氏、萩原氏、また第一部で事例報告を行なった糸長浩司氏(ツシマヤマネコ共生村研究会会長)がコメントされました。

会場:私は秋田県で人口減少が一番進んでいる秋田県、それも秋田県の中でも最も進んでいる白神山地のふもとの藤里町から来ました。政府の地方創生で言われているのを見ると、アイディアがあって元気があれば金だすよってことですが、そうするとどうしても取り残されてしまうところがでてくるんじゃないかと。そういうことについて、お考えを教えていただければありがたいなと。

萩原:藤里町の方たちが、どのようにお考えなのでしょうか。地元住民の方たちの意見はまとめてらっしゃるんですか?藤里町の方たち自身が、「もう自分たちは、消滅してもいいや」と思っているのか、なんとかしたいと思っているのか。その地域の方たちの地域に対する想いをまずはすくい上げる「場」を持つことが大事なんじゃないかなと私は思います。いかがでしょうか?


会場:小さな動きなんですけども、「里塾」というのができまして。役場の若い人たちとかも入って喧々諤々とやっているんですけれど。そういう動きが少しずつ出てきているということは事実です。ただ、このスピードから行くと、それで間に合うのかなぇという危惧はぼく自身も持っています。

内山:日本の社会って、江戸期に一つの定住社会を作るんですけど、江戸期を見ていても、かなり移動性をはらんだ定住社会です。ですから、1000年もそこに住んでいるという人ももちろんいますけど、多くの人たちは、移動をしながら定住をしている。だから定住という意味が、そこに居続けるということではなくて、そこを永遠に居続けてもいい世界だと感じたというのが定住なんです。一方で、近代になってくると、農村に移住する人たちが少なくなってきて、都市に移住する人ばっかりになってきた。結果として農村の人というのは、移動をしない人たちっていうイメージになっていったわけです。このあたりのイメージをもういっぺん転換しなければいけないと思っています。

移動性を保障しながらも、ここの場所に自分の世界を見出すっていう、そういう定住のあり方です。最近農村への移住が増えてきているわけですが、これも移動性を否定するものではないっていうものなのです。


糸長:それぞれの地域がパートナーをいかに作るかが今重要です。一つの社会、一つの地域で固めるという発想が行政的には楽ですけれど、そうじゃないんです。そもそも困った人はお互いが助け合うし、必要によっては移動してウェルカムすればいい。だからぼくは2地域居住とか、3地域居住を含めて、もっと日本全体の中でみんなが支え合う社会を作ればいいでしょうって言っている。今は、それぞれの地域で頑張ってやっているのはいいんですが、もっと地域もオープンになって、良い知恵は入れていくというもっと開かれた社会になったほうが良いと思います。そうなると伝統というものも閉鎖社会の中の伝統なんで、ぼくはもっと切り刻んでもいいかなぁと。そのぐらいの腕力を若い人たちは持ってもいいんじゃないかなとそう思っています。

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