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特集記事WEB拡大版

JOINT45号 WEB特別版「生活動線のあるところに知識や眼差しを散りばめる」

JOINT45号「生活動線のあるところに知識や眼差しを散りばめる」

司会◉ 加藤慶子(プログラムオフィサー)

※本ページの内容は広報誌『JOINT』に載せきれなかった情報を追加した拡大版です。

生活動線のあるところに知識や眼差しを散りばめる

活動の出発点

斎 典道(さい・よしみち)
◉斎 典道(さい・よしみち)
大学在学中より国内外の社会的養護、地域子育て支援の現場でフィールドワークを実施。2012年には北欧の社会福祉を学ぶためデンマークに1年間滞在。日本福祉大学大学院在学中に児童精神科医の小澤いぶきと出会い、PIECES設立に参画。現在は、事務局長として、事業・組織の両側面から事業運営に携わる。2015年~2019年まで、都内でスクールソーシャルワーカーを兼務。2022年度 国内助成プログラム助成対象者。

 私は認定NPO法人PIECES で理事と事務局長をしており、7年ほど前の設立当初から関わっています。NPOの立ち上げに至るきっかけですが、大学時代に社会福祉士の現場実習で児童養護施設に行く機会がありました。最初の2日間は仲良く遊んでいた子が、3日目に急に罵倒してきたり、不意に飛び蹴りが飛んできたり、中学生の子が小学校低学年の子の首を突然締め始めるといったような日常があるのを目の当たりにしました。それらはおそらく、大人や他者への信頼感が希薄な彼らなりに人との関係性を築くための術としてやっていることですが、それらを通じて子どもたちが負っている傷の深さに触れたときに、社会としてこの傷を負わせてはいけないと思いました。

この子たちがこのような傷を負う前に、もっと地域の中でできることはなかったのか、という強い想いを持ったところが出発点になっています。

NPO設立当初まず自分たちがフォーカスしようと思ったのは、直接的な支援や場づくりよりも「人づくり」という観点でした。なぜかというと、子ども食堂に代表されるような子どもを支える場所というのは地域に生まれてきていたり、相談窓口や機関も増え始めていました。ですが、場所や窓口ができても、そこで子どもたちが安心を感じたり、信頼を感じるのは結局は人に対してなんだろうとの想いからです。また、各地の多様な取り組みに触れる中で、もちろん素敵な取り組みがたくさんありながらも、子どもの権利や尊厳があまり大切にされていない部分が想像以上に多くあることにも気づきました。そうなるとその人の眼差しや姿勢、または価値観のようなものがどう子どもに届いていくのかというところも大事にしていく必要があると考えました。

そのような問題意識を背景にスタートしたのが、「Citizenship for Children(CforC)」という市民向けのプログラムです。権利や尊厳への理解が根底にはありますが、特別なスキルや専門性の獲得は志向せず、核はあくまでも市民性の探求です。もう少し市民それぞれが一市民として、何をするでもなく子どもたちとともにいる中で、自分自身の価値観と目の前の子どもにとって大切なことを内省しながら関わりを続けられる。そういう人が増えていくようにこのプログラムを始めたのがNPOの設立のタイミングでした。
 
私たちの課題感としては「孤立」というものがあります。いかに子どもたちが周りの人を頼ることができるか。「助けて」あるいは「ねぇねぇ聞いて」という一言を言える相手がいるか。その関係をまちの中にどう作っていくのかが重要だと思っています。本当にしんどくなってから誰かに発見されるのではなく、子どもたちが日常を生きる中で、あの人にだったらちょっと話ができるとか、あの人がいる時間は自分がほっとできる、というような人が地域にたくさんいる風景が広がっていくといいなと思いながら活動しています。

CforCプログラムを続けているうちに、自分の地域でもやってみたいという声をいくつかいただくようになってきて、モデル的にCforC in奈良、in水戸というのをやり始めて、いろいろな可能性が少しずつ見えてきたと感じているところです。7年間の実践の中で、プログラムを通じて人がどう変容していくのか。また、変容を促すためにはどのようなプログラムデザインが必要か。市民が市民として子どもと関わっていくための学びの機会をどのように作っていくとみんなが内省と対話を進められるのか、といったようなことは見えてきたので、これを自分たちで広げるというよりは、いろいろな団体や機関と協力しながら横展開させていくことを助成プロジェクトで行っています。

私たちにはプログラムの知はありますが、それを広げる方法がなかったので、市民性と呼んでいるこのエッセンスをいろいろな団体や機関と協働して広げながら、子どもとともにいられる市民の人たちを増やしていく、というようなことをしていきたいと思っています。

綿村英一郎(わたむら・えいいちろう)
◉綿村英一郎(わたむら・えいいちろう)
大阪大学人間科学研究科・准教授。東京大学卒,同大学院修了(心理学博士)。慶応義塾大学研究員,東京大学助教を経て2017年から現職。2018年に患った高次脳機能障害から回復中。専門は法と心理学,社会心理学。少年司法,AI裁判,虐待,死刑制度など司法の正義に関するテーマを中心に研究している。趣味はコミック、お香、一人旅。2022年度研究助成プログラム助成対象者。

綿村 私は、もともと法律と「正義」の心理学にとても興味があって、そこからこの研究にたどり着きました。簡単に要約すると、社会的正義を一番損なうことは何だろうと考えた結果、児童虐待ではないかと思い至ったということです。

海外も含めていくつもの研究があるので調べてみたところ、児童虐待や動物虐待もそうですが、本来保護されるべき抵抗できないものが、保護すべきものによって攻撃されるというのが著しく社会的な正義を損なうということが示されています。では、社会的な正義が損なわれるとどういう社会になるのかと考えると、一言でいうとコストがかかる社会になります。正義がないのでルールを作らないといけなくなったり、監視員がいないといけない、または監視カメラをつける必要があるような社会になってしまう。信用できる社会であれば任せられることが任せられなくなると、何かとコストがかかる社会に変容していくと。

実は公務員を4年間ほど経験していて、その時に福祉関係の仕事で児童養護施設に行ったことがありました。夕食の時間に私の隣に2歳くらいの小さな子どもが屈託なく笑って座っていたのを見て、「こんなに小さな子がなぜここにいるんですか」と施設長さんに聞いたら、「虐待です」と言われたことがありました。そのことがずっと心に引っかかっていたのですが、研究をしながら社会的正義を考えていたときに、児童虐待に結びつきました。児童虐待を防ぐにはどうしたらいいかということを考え始めたのが、ちょうどトヨタ財団の申請書を書く1年ほど前からでした。

私は斎さんみたいに社会に働きかけていく術を持っているわけではないですし、論文を書くことが仕事の研究者としては、そのようなことは評価されにくい。研究者として何ができるのかと考えた結果、自分の得意な社会心理学や心理学の知識をいかして、今の社会の正義観や児童虐待に対する人々の視点を客観的に明らかにして、今の状態は実はこういうことになるんだよということを公開して、周知すべきだと思いました。

私の場合は研究からスタートして、「私たちは、実際にはこのような心理に陥っているかもしれませんよ」ということを客観的に明らかにして、それを周知することで状況に気づいてもらい、できることをやってほしいという方向に持っていきたいと思っています。そのために何をやるかということですが、今メインでやってるのが、コミックの制作です。

論文を書こうと思ったのですが、一般の人はほとんど論文を読みません。広く多くの市民の方にどう届けるかを考えたときに、スマホで簡単に読めるコミックがあったら手軽に接してもらえると思い、私はストーリーを作り、なかはらかぜ先生というプロの漫画家にお願いして絵を描いていただいています。まもなく公開する予定で、オンラインで公開しようと思っています。児童相談所の人たちがどんなふうに働いていて、どこに難しい問題を抱えているのか、根本的に難しい問題だから児童相談所に任せきりにするのではなく、もう少し社会のみんなで考えたほうがいいのではないかということを、コミックの力でわかりやすく伝えていけたらと思っています。

それから、先ほど子どもの孤立とおっしゃっていましたが、家族の孤立、親も含めての孤立ということも考えています。虐待する親は孤独であるということがいろいろな調査で明らかになっているので、子どもとセットで親の孤立ということにも社会の人に気づいてもらって、何がそのサインなのかということをコミックで周知させていければと思っています。
 

市民の活動が必要になるとき

「孤立」に関してもまさに家族と子どもは同じです。先ほどのお話にあった2歳とか小さな子どもたちが、虐待されているから助けてと自分から声を上げられるかというと、それは難しいです。加えて、しんどさを抱える保護者もそのことを周囲に伝えられず、声も上げにくい。その背景には、この辛さを社会が受け止めてくれるかというところに対する不安や信頼のなさもあると思っています。

以前、福祉先進国と言われるデンマークの制度やサービスがどれだけ豊かで充実しているのかを一年かけて学びに行ったのですが、制度という点では日本でも今ある制度をきちんと使えれば、それほど大きな差はなくなるだろうという感覚で帰ってきました。ただ、日常を作っている市民の人たちの眼差しは大きく違っていました。とても寒い冬の朝、通勤ラッシュの時間にバス停にやっとバスが来たのですが、もうそのバス停からは乗れないほど満員で到着しました。でも、ベビーカーを押しているお母さんと子どもがバス停にいるのを見た乗客のうち、そのバス停で降りるわけではなかった人たちが3人くらい降りてきて、お母さんに向かって自分たちは後で行けるから先に乗っていいよ、子どももいて寒いでしょと入れ替わりを申し出て、お母さんと子どもがありがとうと言って乗っていくということがありました。

その3人の行為には当然感心したのですが、日本だったらもしそういうことがあっても、「すみませんいいです、大丈夫です」と過剰に恐縮したり遠慮したりしてしまうと思うのです。しかし、降りてきた人たちのお母さんと子どもに対する眼差しと、さらっとありがとうと言って乗っていくお母さんの自然な姿を見た時に、お母さんからしたら自分はここにいてもいいんだという感覚や、何かあったときに社会の誰かが助けてくれるという信頼感がこういう中で少しずつ育まれているんだろうなと感じました。これは制度をいかに充実させられたとしてもそれだけではきっとうまくいかない。市民一人ひとりの眼差しや価値観といった市民性の部分がセットで育まれていかないといけないんだろうな、これが福祉先進国といわれる所以なんだなと思った場面でした。

綿村 全くその通りですね。デフォルトを少し良い方向に変えていかないといけないですよね。ハード面だけを変えても思ったほど良い方向には機能しません。良い設計の制度であっても、それをどう運用するのかといったときに、市民の力が必要になってくると思います。それは本来私たち社会心理学の分野がやるべきだったのですが、私個人はやれてきていなかったということが反省としてあるので、今取り組んでいるところです。

日常の中のデザイン

家子直幸(いえこ・なおゆき)
◉家子直幸(いえこ・なおゆき)
大学卒業後、医療系メーカー、民間シンクタンク、大学のプロジェクト研究所を経て、現在は公務員。知識仲介のあり方を研究しており、社会福祉法人やNPO法人などの非営利セクターがエビデンスに基づく実践に取り組むための実装方法を模索している。2019年度研究助成プログラム助成対象者。

家子 私は知識仲介の研究をしていて、2019年にトヨタ財団の研究助成をいただきました。大学生のころは企業がビジネスを通じて価値を創出することで社会を良くできると学んでいたこともあり、大学卒業後は医療系のメーカーに入社しましたが、実際はその実現が簡単ではないこと、企業が単独で実現できるものではないことを働き始めて実感するようになりました。その後、民間のシンクタンクに10年以上勤務し、その後半には大学の研究所にも兼務するようになり、そうした時期にトヨタ財団の助成金をいただきました。民間シンクタンクでは官公庁からの受託による調査研究も担当していたので、当時から行政との関わりがあったのですが、約1年半前に転職して公務員として働いています。

シンクタンク勤務時代に社会的養護を経験した若者にインタビューをしに行ったとき、「わかる、なんて言うのは泥水をすすってからにして」と言われたことがありました。共有する経験があるわけでもないのに話を本当に理解できることなんてない、わかったようでわかっていない、ということを突きつけられたのだと思いハッとした経験がありました。

私も北欧、特にフィンランドの取り組みに関心を持っています。オープンダイアローグに象徴されるような当事者中心のケアが児童福祉にも展開されていて、日本国内でも類似の方向性の改革が行われようとしています。本人がこうしたいと考えているとか、こんなふうに世界をとらえている、といった主観的なことからケアが組み立てられていくといいのだろうなと思います。未来がそんな社会になっていくとしたら、個人の努力だけでは実現できないことでも、先ほどのお話にあったCforCのような子どもの周りにいる市民のネットワークや、地域やコミュニティといった単位だからこそできることもあると思うので、児童虐待を防止するための取り組みを社会に実装することを考えたとき、非営利セクターの取り組みに関心を持って、そうした観点で研究をしてきました。

私の知識仲介についての研究の問いは、非営利セクターの対人援助でエビデンスに基づく実践が定着しないのはなぜか、というものなのですが、そもそも知識仲介とは何か、というところから説明させてください。たとえば虐待防止の領域の取り組みと言っても結構幅があって、広い層を対象とした未然防止としての一次予防から重度化や再発を防ぐための三次予防まであると言われていて、虐待防止と言ってもどのあたりの話をしているか整理が必要となることがあります。

また、行政、研究機関、地域コミュニティなど複数のセクターが円滑に協働できるとよいのですが、そもそもセクターによって役割も考え方も視点も違っています。公務員としては研究知見や調査結果が明日にでも欲しいという状況になりがちな一方で、研究者としては5年先に成果を示すための研究をしており連携が難しい、といったような時間感覚や役割の違いがあります。同じ虐待防止という目的に向かっていても、いろいろな違いのある多様なセクターが関わるので、うまく繋がっていくための工夫が必要ではないかと思います。そうしたときに、エビデンスや研究知見に関する情報をわかりやすく咀嚼して伝えるのが知識仲介だと言われています。
 
綿村 具体的には、特にどこの部分にエビデンスベースの実践が必要だと思われているのでしょうか。

家子 介入研究は世界的にみると多くの蓄積があって、そうした知見がより一般的に用いられるようになるとよいなと思っています。たとえば認知行動療法のように、高い効果が実証されている専門家による集中的なケアが必要なときもありますが、多くの人があまりコストをかけずに広範囲に導入できるようなアプローチを非営利セクターが担うのも同時に重要だと思っていて、それがコミュニティや市民社会といった、お2人と共通のキーワードに繋がっているところです。

専門家のいる場所まで通って指導を受けて帰るというアプローチだけだと、予約を取ってその時間に行くという一連の流れに対応できる人でなければケアを受けられなくなるので、ハードルが高く感じる人もいるんじゃないでしょうか。先ほどご紹介いただいたコミックのような、多くの人の目につくものは、気軽さが全然違うところが特によいと思います。そういうデザインというか、日常生活の流れの中に自然と馴染むアプローチを使わないと、社会実装はうまくいかないんだろうなと思いました。

ケアしようとしすぎないこと

 非営利の児童福祉の領域ではみんな子どものためにと言いながらやってはいるものの、子どものためになっていないことが実はたくさんあるように思います。本当の意味で子どものためになるかどうかを見極めるのはとても難しいことですが、ここはみんなで最低限抑えておこうよというポイントのようなものがまだ抑えられてない感じがあるので、家子さんの取り組みは全面的に応援したいです。

と言っておきながら反対側の話もしますが、「正しさ」を求めることが市民にとって必要なことなのかという問いもあると思っています。専門職の人たちはその専門性をきちんと磨き続けていく必要がありますし、エビデンスに基づく正しい実践が求められます。一方で、子どもたちが正しい関わりやアセスメントのようなことを求めているかというと、そうではないこともままあるように思います。頭で導き出した正しい答えよりも、心を大事にした優しい応えというのもあるかなと。

この話をする背景には、非営利の世界の一部で起きている市民の支援者化、もしくは非専門職の専門職化という問題意識があります。市民として関わっているからこそ意味があるのに、支援者のような振る舞いをしてしまう。ケアしようとしすぎないでほしいというか、そこにただ一緒にいてご飯を食べたりゲームをして共に過ごす時間や、感情を共有していること自体が大事なので、心のしんどい部分に変に入っていったりして、支援者めいたことをしてはいけないんだよというところがあります。ベースとして抑えるべきところとの折り合いのつけ方が難しいですが、ここは大事にしたいところです。

家子 研究者の場合は、社会に働きかけるアクションをすると市民の人たちと接点ができたりするものなんですか。たとえばコミックを通じて読者とつながるようなことは……。

綿村 研究を進める中で児童相談所の人から一緒に何かやろうというお話をいただくこともありますし、なかにはすごく辛辣なご意見をいただくこともある。自分の目的とすることや実践が共有されているとは限らないし、ある種の価値の押し付けになっているかもしれないと感じて、これでいいのかと非常に悩みます。たとえば研究の中で、児童相談所とはこういうところであるとよいという視点をどうしても出してしまうことになるので、押し付けたくないけれどニュートラルではない状態になってしまいます。

コミックのセリフは私が考えているのですが、こういう言い方をするとこういう価値観の押し付けになるといったようなことを常に考えて、かなり気をつけています。たとえば「児童養護施設ができることに地元住民はすごくリスクを感じる」というセリフが出てくるのですが、それを書いていいのかどうか。インタビューをしたり実証的な研究の結果、児童養護施設が地域にできることに対して住民があまりよく思わないというのは事実です。しかし、それをそのままコミックにしてしまうと、児童養護施設は良くない施設だという価値観を入れてしまうことになります。これは一例ですが、このようなことがいくつもいくつもあります。

家子 私もジレンマがあります。児童虐待の防止のためには、事後対応ではなく予防的に踏み込んだ取り組みが重要なのだとわかってはいるものの、どう踏み込むのかというところはすごくためらいがあります。行政は法制度の中でできることが決まっていますし、予算の制限もあります。一市民としてはいろいろやれるとよいと思う気持ちもある一方で、先ほどのお話にあった押し付けてしまうこととのせめぎ合いが生じるわけですが、では未来への次の一歩はどうしようか、ということなんでしょうね。

斎さんのお話にあったゲームをしてくれるお兄ちゃんのような市民の方は、その人なりの好意でしてくれているわけですよね。

 多くの場合はそうですね。

家子 その好意を否定はしないけれども、好意があれば何をしてもよいとは限らない、ということになるんでしょうか。

 良かれと思ってやったことが相手のトラウマになることも当然あります。そういう意味ではトラウマ・インフォームド・ケアについては、少なくとも子どもに関わる人であれば誰もが知っておきたいことです。ボランティアでも仕事としてでも、子どもに関わる人たちなら学校の教員も含めてみんな知っておくべきことだと思うのですが、先日80人くらいの講演会場で聞いたら1人も知っている人がいませんでした。そのような現状ですから、これも含めてまだまだやっていかないといけない基礎的なことがたくさんあります。
 
家子 コミュニティの関わりという観点では、「エンパワー」という概念をもう少しうまく実現したいですよね。エンパワーすることが市民社会にできるゴールの1つかもしれない、というようなことを最近思っています。
 
 何かを与えるとか、何かをできるようにサポートするというほどのことではなくても、ちょっと元気になってもらえたとか、自分がそこにいていいんだと思ってもらえたとかの感じでいいと思います。知識仲介がこれから進んでいったときに、子どもの支援だけではない領域に確実に援用可能なものだろうなと思いました。

話が変わりますが、子どもたち本人の声を援助プロセスに取り入れていこうというのはすごくわかりやすい大切なエッセンスであると思うのですが、エビデンスとして出ているのでしょうか。たとえば、要保護児童地域対策協議会(以下、要対協)が組まれているケースのほとんどは、関係者たちがそれぞれの視点でこうした方がいい、こうするべきということをテーブルに乗せて、それをもとに担当のソーシャルワーカーが援助プロセスを目標立てて、援助プランを組んで、皆で役割分担するという流れで、そこに子どもの声が組み込まれていないことが圧倒的に多いです。

たとえ子どもにとってすぐによい結果にならなかったとしても、本人が言った意見や希望が反映された方が子どもの納得感は圧倒的に高いと思います。自分で決定できたということ、それ自体がその子をエンパワーメントすると思いますが、実現はされていません。本人の生きる力のようなものを育む上で子どもたち本人の声が入った方がいい、そういう経験があると明らかに違うというようなエビデンスがあったら、ある程度そういう方向に行く気がするのですが。
 
綿村 いくつかの原則に基づいて、ケアワーカーと一緒にファミリーのグループカンファレンスをやりましょうというような、ピアサポート的な話を理解できる人が入っている構造の中で行われるプログラムのエビデンスはたくさんあります。本人のエンゲージメントが高い状態でプログラムが行われると良い効果が出ると言われています。とはいえその効果というのは評価が結構難しいかなと思っていて、子どものウェルビーイングが高いというのは証拠があるはずですが、実際に虐待の予防になったのかという次元ではなく、子どもの満足とウェルビーイングがその先どこまで効果があったのかということまではわかっていないように思います。
 
 理想に向かってそういったものが染み渡っていかない現実がありますが、そこを阻むものは何でしょうか。
 
家子 要対協という枠組みができましたが、周りの人たちが心配事に対して情報を持ち寄って共有できる場になっていて、対象となる人を支援する人たちがさまざまな角度から見られるという点ではとても有益なのですが、本人が自分のことをどう思っているか、というような情報は、その人がインタビューを受けて、話してもらわないかぎりわかりません。

また、当人のご親族などからもヒアリングをしないと全方向からの見方は集まらないと思います。自治体ではこども家庭支援センターを作り、本人がどうしていきたいと考えているのか意向をしっかり聞きましょう、ニーズを大事にしましょう、という方向に向かっていますが、これから充実が望まれる領域です。社会としても「私はあの子を心配だと思っている」ということが意思決定で重みを持っていて、本人がどうしたいか、というニーズを重視した意思決定の手法の取組みはあまり進んでこなかったのかなと思います。
 
綿村 全く違う文脈ですが、手続き的公正という概念があります。これは裁判というシチュエーションで明らかになっていることですが、同じような判決でも当事者が裁判のプロセスに参加できたかどうか、何か発言できたかどうかということが、実は判決の満足度を大きく変えるということがわかっています。たとえば2009年から被害者参加制度ができて、被害者が裁判で被告に質疑することができるようになったり、求刑をすることができるようになりました。結果的にそれをした当事者は、判決に満足するようになったということがわかっています。それを子どもの支援の世界に援用すれば、虐待された子どものその後の満足度が上がらないのは、自分がコミットしているかしていないかというところはすごく大きくて、結果的に何をされるか、何を言われるかというところは実はあまり関係がない可能性があるかもしれません。
 
家子 私もそう思いますが、「虐待を受けているのでは」と言われたら驚くと思うし、あるいはそれが事実だとしても受け止めるのも難しいし、それに対してどうしていきますか、と問われるのも苦しいものではないかと思います。当事者がコミットしたほうがいいと思う一方で、プロセスに参加していくのは案外難しいのかもしれないとも思います。裁判の例でも、そのような心情的な面で被害者参加制度に参加できなかった人もいると思いますが、乗り越える方策があったのでしょうか。
 
綿村 これまでずっと被害者は蚊帳の外で、自分が関われないところで判決が決まっていました。法改正が行われるまでは、たとえば自分の子どもや親が殺されたとしても、その裁判を聞くためには並んで傍聴券を取らなければなりませんでしたし、それができなければ裁判が終わったあとに検察官から「こんな判決でしたよ」とか「こういうやり取りがありましたけどどうですか?」と言われていました。どうですかと言われても……という気持ちになりますよね。なので、もともと裁判に出たい、真実を知りたいという心理的背景があったのでしょう。虐待のケースとはちょっと違うかもしれません。
 
 虐待では、たとえば母子分離、親子分離など自分の身にこれから起きていくこと、また、どういうケアを受けることになるのかについて勝手に決められたくなかったりするかもしれません。
 
家子 きみは今から一時保護所に行きます、しばらくしてこの施設に行くことになりました、と一方的に言われるのではなく、説明を受けて理解した上で意見を述べる。実際の対処は最善の利益につながると思われることによって決められるので、意見通りの結果とならないかもしれないけど、ということですよね。
 
綿村 裁判における被害者の話も同じですね。被害者が死刑にしてほしいと言ったからといって死刑になるわけではないけれども、言ったことによって、自分の意見を判決を出す際の考慮に入れてもらえたという満足感が得られます。自分の声を出せる権利があなたにはあるんだよということを、まず子どもの側にきちんと伝える。無力なあなたではなくて、どんな環境にあってもあなたは自分の人生について自分で声を出せる権利があるんだよと伝えていかないといけません。それがその子の権利を守ることにもなると思います。

市民としての関わり方

綿村 無関心な人たちに関心を持ってもらう気持ちの掘り起こしがすごく難しい。

 もともと少しでも関心を持っている人だったら何らかの働きかけをすることができるかもしれないし、ちょっと難しいレクチャーをしても受け入れてくれるかもしれませんが、無関心な人にはそのアプローチでは難しい。正しいことをまじめに伝えても受け取ってくれないので、正しいことをいかに面白くカジュアルにやっていくのかという意味では、まさにコミックであったり、生活動線の中でそういうことに少しでも気付ける機会をどう作っていけるかというところは、すごく大事な部分だと思っています。

綿村 ひょっとしたらコミックが参考になるかもしれないので、できあがったら見ていただきたいのですが、まさに普通の市民が虐待通告をするときのタイミングについてレクチャーしています。さきほどのお話にあったように、好意でどうしたの? と聞いてしまうと、実は記憶の変容や誘導が起こるということを解説しています。

 たとえば性虐待については、何度も同じことを聞かれてしまうことでさらなる傷を生んでしまいかねないというのは、専門職の中では当たり前の理解ですが、市民のレベルではなかなかそういうことまではわかりませんよね。虐待の話をどこまで聞くかもそうですし、子どもにとって1人でいる時間もすごく大事だったりするので、孤独を問題だとしすぎないこと。1人の時間もまた豊かな時間として大事にしながら、望まないのに孤独にさせられてしまっているとか、孤立した状況にさせられてしまっているならば、そこにはみんなで目配りしていこうという話も、伝えるのがなかなか難しいです。

家子 東京の下町にある酒屋で角打ちを経営する傍ら、そこでソーシャルワーカーとして地域の相談を聞く取り組みをしている保護司の方がいます。地域の側からすると、たまたま酒屋の店主が保護司でソーシャルワーカーだった、ということになるのですが、そういう人たちの取り組みは、無関心の人にとっても近いところに存在していますよね。無関心にどうアプローチするんだろうと考えたときに、専門的なシステムは対極に近いほうになりやすいのだと思います。包括的なその人に関わるというよりも、生活するうえで課題がある人に関わることが専門的なシステムに求められがちな中で、その人となりをわかった上で関わることができるのは市民であり、非営利セクターなんだと思います。綿村さんは、各話のコミックで扱うテーマはどう決めたのですか。

綿村 児童相談所の職員、施設に勤めたことがある人、これから就職する人などたくさんの人にインタビューをしていろいろな情報を集めて、その話を一つのストーリーにしています。

家子 いろいろな人がテーマの決定に参加しているのがいいですね。社会に伝えたいことを研究者が決めるのではなくて。

綿村 できたものを見てもらって、「これでいいと思いますか」とフィードバックしながらやっているので、少なくとも私の独りよがりにはなっていないと思っています。生活動線の中で知識仲介をしていくことをしていきたいですね。

 CforCを受けた方の中に、たまたまコンビニのオーナーさんがいらっしゃいました。深夜に1人で来る未就学くらいの子がいたり、万引きする中学生がいたりして、ただそういった子たちと話すと、家庭環境にいろいろあったりするのがわかってきて、万引きくらいしょうがないように感じてしまう。けれど、一市民として何ができるんだろうという想いでCforCに参加してくださったのですが、その方が結局行き着いたのは、コンビニの一角を子どもたちが遊べる場所にするということでした。敷地の広いコンビニなのでもともとイートインスペースが広いのですが、そこにボードゲームを置いてみたら子どもたちがたまり始めて、テスト期間になると勉強する子なども出てきたそうです。

そうすると、従業員やお客さんとして来る町の人たちが子どもたちに声をかけたりし始める。「勉強してんのか、頑張れ」とか、「ゲーム一緒にやるか」という感じで繋がりが生まれるそうです。子どもたちからしたら、視野の端っこに町の大人たちが入ってきて、またあのおっちゃんがいるなといったことだったり、大人の方も今までは特別な関心もなかった子どもたちの姿がちょっと目に入ってきてという変化が起きているそうです。

あくまでもその人は市民としてという部分を大事にしながらですが、子どもたちとの他愛もない会話の中で、ちょっと気になったことがあったときには声をかけたりするようなことを自分のできる範囲でやっているそうです。先ほどの保護司の方の話もそうですが、そういう人たちが、少しずつそんな眼差しを持っていく世界が広がっていくといいなと思います。いわゆる正攻法でアウトリーチしていくというのも限界がありますし、既に居場所になっているところや生活動線にあるところに、そういう知識や眼差しのようなものが散りばめられていくのが理想的ですね。
 
 
 
加藤 最後に、今後どのように連携をしていきたいとか、お互いへのエールなどを、一言ずついただけますか。
 
綿村 前から薄々気づいていたことを再確認することができたのがとても大きな収穫でした。自分がやっている活動にどういうメッセージ性を持たせるかということ、またそのメッセージは誰が決めるのだろうというところは、お二人と話して共有できたところです。私はこれでいいと思っていてもそれが押し付けになってしまったり、押し付けることもある部分ではいいかもしれないけど逆のものが見えなくなっえしまったり、その辺りをどう調整していったらいいのだろうかというのはまだこれから悩むと思うので、お二人に相談させていただきながらやっていければと思います。
 
 いる場所はそれぞれ違いますが取り組んでいる内容は似ていて、事前の段階では理解できていませんでしたが、話していく中で同じことを思っている人たちと集まれたという、そこでまず率直にエンパワーされました。小さなNPOなので、自分たちでこれは大事だと思うことをやっていますが、お二人もその部分をそれぞれの視点からそれは大事だよねと一緒に見てくださると感じたので、力を貸していただければと思っています。自分の中で今日のこの時間を通じて少し視界が開けたのと視野が広がった感覚があります。知識仲介は全く触れたことのない領域でしたが、これなしには社会が前進していかないと思うので、楽しみにしています。これからもどうぞよろしくお願いします。
 
家子 政策研究の中では「コミュニティの違い」とよく言われるのですが、研究者と行政官、それに現場の人たちも含めて、異なる文化や世界観を持っている、という考え方です。でも今日は、研究者が社会の前進に対して研究だけでなく実践に近い領域で研究としてやれることがあることもすごく学びになりましたし、実践家が研究的な手法を用いたり研究を理解・咀嚼したりして前進していくことも同じように可能だと思いました。それぞれ違うコミュニティなんだろうなと思っていたものでも、共通で語れることがまだまだあると知れたことが、明るい兆しの一つでした。これからも、異なるセクターの人たちと繋がりをもって、そこで互いに共有できるものがあると、もしかしたら社会が動いていくかもしれない、まだまだ成せることがあるかもしれない、という実感を持てたことが良かったです。
 
加藤 ありがとうございました。

JOINT45号「生活動線のあるところに知識や眼差しを散りばめる」

公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.45掲載(加筆web版)
発行日:2024年4月12日

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