公益財団法人トヨタ財団

活動地へおじゃまします!

20 「国境や世代を超えてつながる住民主体のコミュニティ活動」台湾・渓洲部落を訪ねて

渓洲部落の家
渓洲部落の家

取材・執筆:利根英夫(トヨタ財団プログラムオフィサー)

活動地へおじゃまします!

台北郊外のある小さな集落に、大きな変化が起きています。その変化は、集落の住民と深く関わっていくことになったある日本人と、日本と台湾にいる彼の仲間たちが、住民自身の力を引き出し、10年を超える時間のなかで導き出されてきたものです。

日本と台湾をつないで生まれたその変化のプロセスが、いまインドネシアにつながり、さらに諸国に拡がっていく端緒になりつつあります。人の縁から始まり、国境と歳月を超えて結びつく2つのプロジェクトの現場のひとつを訪ねました。

阿美族が暮らす台北近郊の集落

渓洲部落の集落入口にあるゲート
渓洲部落の集落入口にあるゲート

台北県新北市にある渓洲部落は、台湾北部を流れる淡水河の支流・新店渓の川沿いに築かれたコミュニティです。周辺に公共交通は整備されておらず、最寄りの駅からは徒歩で30分ほどかかります。

台湾には、16民族、50万を超える原住民がおり、台湾社会の2%ほどを占めます。歴史的に色濃い偏見や差別を受けてきた彼らは、80年代には権利回復運動を展開し、彼ら自身が「原住民」という呼称を勝ち取りました。

渓洲部落に暮らすのは、その原住民のなかで最も人数が多い阿美(アミ)族の35世帯ほど。阿美族の多くは台湾東部の花蓮県等に暮らしてきましたが、建設労働等に従事して台北の発展を支え、一部の人々はそのまま台北に暮らすことを選びました。ただし、彼らが暮らさざるを得なかったのは、その大都市の周縁部。行政側から見れば公有地に「勝手に住み着いた人たち」でした。周囲の開発等に伴い、いくつかの原住民コミュニティが強制的に排除されていくなか、川沿いの土地を公園等に整備する動きが起こり、この渓洲部落にも排除の圧力がかかっていました。

そのような状況にあったこのコミュニティに、ある人が関わることになります。建築家であり、大学の教員であり、NPO「まちの縁側育くみ隊」の創設者でもある故・延藤安弘氏でした。

延藤安弘氏の取り組みと、そこからつながる縁

当時の住民運動(上)やワークショップの様子は今も集落に掲示されている
当時の住民運動(上)やワークショップの様子は今も集落に掲示されている

延藤氏については、多大な業績のある研究者として、あるいはまちづくりや地域づくりに関わるNPOの先駆者として、ご存知の方も多いでしょう。神戸や東日本の震災復興における地域コミュニティの活動についても精力的に活動されただけでなく、ワークショップの方法論や実践等の面では、建築やまちづくりといったテーマを超えた市民活動にも大きな影響を与えてきました。

広報誌JOINT25号「私のまなざし」で触れられているブルガリアの絵本創作ワークショップも、延藤氏が深く関わったものであり、その活動の幅広さと知見の大きさを、ひとつの枠に留めるのは不可能です。

台湾大学の客員教授として学生の指導をするなかで、渓洲部落に縁を得た延藤氏は、彼らの居住文化に惚れ込み、以後関わりを深めていきました。そんな折、トヨタ財団は延藤氏への助成を行います。2009年のことでした。

そのプロジェクトの目的は、「住民と大学、住民と住民、住民と行政の信頼と協働に基づく原住民居住コミュニティの継承と再創造を、典型事例において住民主体の設計、建設、管理の全過程で成功させ」ることでした。助成により住宅の間取り等ハード面の調査と、コミュニティ内の関係というソフト面でのリサーチが行われ、台北県政府に対する住民参加による再建設計画の立案が推進されました。

建築中の新しい住居(写真提供:太田裕通氏)
建築中の新しい住居(写真提供:太田裕通氏)

住民自身はどのようなコミュニティを作っていきたいのか? 延藤氏と仲間たちが外部ファシリテーターとなり、ワークショップ等を通じて渓洲部落内の合意形成を図っていきました。また、行政との交渉の場も作り、両者の合意も形成されていきました。

周辺地の再開発と住民の居住地、さらには住居デザインといった具体的かつ詳細な面に及ぶそのプロセスは、助成プロジェクトを超えて何年もかかります。助成から10年を経たいま、現在の居住地のすぐ隣の公有地に新たな住居が建設されており、来年には全住民がそこに移る予定です。

延藤氏が育んできた台北の小さなコミュニティでの住民主体の活動が、彼を台湾につないださまざまな縁と相互信頼の基盤に乗って、ゆっくりと、しかし目に見える大きな変化となって現実に立ち現れてきているのでした。

時と場所を超える共通性

小学校時代に日本語で教育を受けたおじいさん
小学校時代に日本語で教育を受けたおじいさん

トヨタ財団は「アジアの共通課題と相互交流」を掲げる国際助成プログラムで、渓洲部落に再び関わりを持つことになりました。台北で実現したこの集落の経験を、インドネシアのジャカルタの「カンポン・アクアリウム」とつなげる試みです。

「カンポン・アクアリウム」はかつてジャカルタ北部の湾岸にあった、約700人が暮らしていたコミュニティです。2016年に州政府の観光地整備計画のもと強制的に取り壊されました。しかし、一部の住民は都市計画プランナーや法律家等と協力し、また周辺国の関係者とも関係を築いて、バラバラになってしまった同コミュニティの再建を目指しています。

このプロジェクトの中心となっているのは、渓洲部落の再創造プロセスに深く関わってきた台北の人々と、延藤氏の「かばん持ち」として学生時代から同地に関わり続けてきた名畑恵氏、そして渓洲部落に驚くほど似た環境と経緯を持つジャカルタの「カンポン・アクアリウム」に関わる人々です。3者を知る京都大学の神吉紀世子教授がこれらをつなぎ、学生を含めて共に知見を共有していきます。

ジャカルタに住んでいたことがあるというおじさん(右から二人目)に話を聞いた
ジャカルタに住んでいたことがあるというおじさん(右から二人目)に話を聞いた

渓洲部落の長老的存在の男性から、阿美族の祖先はインドネシアにも近いカロリン諸島から来たそうだよ、と日本語で教えられました。小学校低学年のときは、日本語で教育を受けていたそうで、今でも日常会話に支障はありません。また、阿美族の言葉はインドネシア語との共通性が多く見られるそうです。

日本とインドネシア双方との歴史的・文化的な大きなつながりを感じます。渓洲部落の人々は、ジャカルタの「カンポン・アクアリウム」の写真を見て、その住環境の共通性にも驚きの声を上げました。

渓洲部落からの学び

深夜まで続いた延藤氏を偲ぶ会
深夜まで続いた延藤氏を偲ぶ会

渓洲部落で起きていることから、環境が異なる他国・他地域が学び取れることは何でしょうか。それは住民参加と行政との合意形成のプロセスと、住民自身の責任だと感じました。不平不満を言うだけでなく、自らが暮らす地域はどうあるべきか、どう変えたいかを考え、自らが動き、その結果も引き受けていく姿勢とも言えます。

延藤氏は2018年に亡くなり、渓洲部落の変化や、さらにその先の拡がりを目にすることは叶いませんでした。しかし、地域の人々を含むプロジェクト関係者のなかには、その遺志と意思が確かに根付いています。

偲ぶ会で振る舞われた阿美族の料理
偲ぶ会で振る舞われた阿美族の料理

訪問した7月下旬のある晩は、故・延藤氏を偲ぶ夕べとなりました。かつてワークショップ等が行われた集会場の前に椅子が並べられ、模造紙を貼った壁に延藤氏のこれまでの活動が映し出されるなかで、住民と故人とのエピソードが次々と語られました。阿美族の料理に舌鼓を打ちながら、これまでとこれからを賑やかに語り合うその場には、延藤氏が遺したものが確かに息づいていました。

各地の人々と地域に新たな変化をもたらす、国境や世代を超えるつながり、それを生み出す場と、その努力を中長期的にサポートすることの重要性を再認識した台北訪問でした。

旅のアルバム

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公益財団法人トヨタ財団 広報誌JOINT No.31掲載
発行日:2019年10月24日

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